2015年7月9日木曜日

池田敬子(元女子体操選手)     ・東京オリンピックにかける思い

池田敬子(元女子体操選手)     ・東京オリンピックにかける思い
1954年ローマ世界選手権平均台で日本女子体操史上唯一の金メダルを取り、ローマの恋人と呼ばれました。
その後も国内外の大会で輝かしい成績を残し、1964年の東京オリンピックでは、女子団体の初の銅メダルの原動力となって、大活躍し、2002年には日本体操女子で初めての国際殿堂入りを果たしました。
引退後は40年余りに渡ってジュニアの育成に情熱を注ぎ、数々の名選手を育てました。
前回の東京オリンピックには選手として、5年後の東京オリンピックには人々に元気を与えるため、81歳になった今も、毎日逆立ちを欠かさないという池田さんに、東京オリンピックにかける思いを伺います。

当時、女がおてんばで走り回ったり、逆立ちをするという事は想像もつかなかったことで祖母が嘆き悲しんでいました。
日本体育大学女子学生の一期生、女子は2人、入学した。
体育館が無かったので砂場で練習をしていました。
1954年ローマ世界選手権に女子で始めて参加、自費で40万円かけて行きました。
平均台で日本女子体操史上唯一の金メダルを取る。
床運動をやるがごとくに、ジャンプとスピンをやったので、これこそ平均台だという事で、次のオリンピックからはルールが変わって、これをやらないと、減点になった。
高さ1m20cm、幅が10cm、長さが5m の範囲でやる競技。
ローマの恋人と呼ばれ、山のように花束やラブレターがきました。

1956年メルボルンオリンピックでは床で4位、団体で6位、モスクワ世界選手権では床で銅メダル、1960年ローマオリンピック 個人総合6位、団体は4位
1962年プラハで世界選手権 平均台、女子団体で銅メダルを取る。
1963年に出産、母親になってからも、1964年の東京オリンピックに参加、女子団体の初の銅メダルの原動力となった。
男子に引けを取らない様にするために、女子も頑張らなければという事だった。
オリンピックの直前に、ふくらはぎに肉離れを起こしてしまった。(この事は内緒にした)
男子の小野さんも肩を痛めて、麻酔を打ちながら頑張った。(日本の鉄棒の歴史を作った人)
平均台で「片足前方宙返り」の技は当時は無くて、取り入れるべく時間のないなかで練習をして、
本番に取り入れて、9.70出してドイツに逆転して銅メダルを獲得した。

オリンピックが終わって1カ月後に全日本大会でアキレス腱を切ってしまう。
翌年、京都の全日本で個人総合優勝で奇跡のカムバック、いろんな思いがあり表彰台で初めて涙を流した。
その翌年、ドイツのドルトムント世界選手権で自身最高の成績、個人総合銅メダル、団体でも銅メダル。
段違い平行棒では銀メダルを取る。
表彰台に上がって、チャスラフスカ、クチンスカヤと握手した時に、こんな子供とやってるのかと思ったら、これは日本は困るなと思って、ジュニアを育成しないといけないと思った。
36歳で引退する。
若手を育てるために、全国を歩いた。
経団連の大月文平さんがこの姿勢に感激して応援してくれる事になる。

1975年に全日本ジュニア体操競技会が設立され、女性で初めて、副理事長に就任。
着地に重点を置いて、自分の席に戻るまでが点数だということをまず教えました。
白井選手は3歳のころから見ていましたが、返事が凄く良かった子です。
体操とは何だか言ってみろと言ったら、「線です」といったので、之は凄いと思いました。(3歳の頃)
線の美しさが見えたという事は、これはすごい選手になるとずーっと期待していた。
2002年には日本体操女子で初めての国際殿堂入りをするが、貰っていいのかなという気がしました。
東京オリンピックの閉会式、入場前にルーマニアの人が帽子がほしくて日本チームに押し掛けてきて、三宅さんがチャンピオンになったので、肩に担いで行っちゃえと言う事で、整列の声を無視して行く事になった。
怒られるかと思ったが、そこから何を発見するかと言う事が、それぞれの大会で大事だったかなあと思います。
今度の東京オリンピックもできることよりも、そこから何が発見できるか、と言う事の方に皆が重点を置かなければいけないのではないかと思います。

2000語宣言 ザトペック、チャスラフスカ等も署名 ザトペックは撤回したが彼女は撤回しなかった。
彼女を訪ねて行ったら、壁に20cm四方の白いものがあったが、電話がもぎ取られているといって、友達までがあっちをむいてしまって、それが一番悲しかったと言っていた。
ジュニアの大会で日本にチャスラフスカを何とか呼びだせないかという事で、外務大臣のところと掛け合って彼女だけ来ることができたが、そこからが突破口だった。(夕方記者会見をする)
チャスラフスカの娘は体操をやりたいと言っていたが、母親チャスラフスカとしては無理だと思っていて、チャスラフスカから私に説得させてほしいと言われて、母親の運動神経には及ばないので体操は無理だとなんとか説得役をした。
チャスラフスカとしては東京オリンピックが生涯で一番輝いていた時代だった。

健康法は逆立ちをやっている。
体操競技の中では逆立ちは基本の基本です。
合宿の時は必ず逆立ち競争をして、一番に表彰状をやっています。
逆立ちは技の中での礼儀です。
東京オリンピックは、世界一の事をやるよりも、オリジナルなオリンピックであってほしいと思います。