神 英雄(加納美術館長・歴史地理学者) ・「清らかに仏の道を生きた”妙好人」
15年前に島根県の石見地方に移り住みました。
そこには清らかに信仰の道を生きる人達をたたえる妙好人という言葉がありました。
江戸時代にその言葉が生まれた様で、明治以降、鈴木大拙や柳宗義等が不思議なほどに好ましい人として妙好人を取り上げ、紹介しています。
神さんはこの妙好人と呼ばれる人の言葉やエピソードに共感を覚え、資料と伝承を探ってきました。
いまや埋もれた存在になっている先人の言動は、現代を生きる私たちに人生を乗り切る貴重なヒントを与えてくれるのではないかと、考えるようになったと言います。
妙好人とはどういう人なのか?
お釈迦さまが念仏者をたたえる言葉として使われたのが、由来だと聞いています。
煩悩にさいなまれている私たちですが、煩悩による穢土の中に美しく清らかに咲く花、白蓮華(びゃくれんげ) このことから始まってさとりを得た人、救いに預かった方の事を象徴するという事で使われる言葉だ」と言われます、主に浄土真宗で使われています。
江戸時代に後期、今の島根県西部に浄泉寺がありましが、仰誓和尚が現れる。
誤った教えを信じている人たちに対して、身をもって教える。
伊賀にいた時に、色々なところに行き、浄土真宗の教えと共に生きている方達と出会って、丹念に文章にして、「親聞妙好人伝」を書きました。
石見にやってきて、教えとともに生きている人たちから僧侶として学んだことを、丁寧に書いてゆくが、「妙好人伝」としてまとめられる。
「親聞妙好人伝」、「妙好人伝」も出版されることもなく、浄泉寺にあったが、仰誓和尚が亡くなり、その子供も出版しようとするが、亡くなってしまう。
数十年後、僧純が纏め直して、「妙好人伝」を書きました。
教えとともに生きる喜びを広く判り易く伝えていこうとした。
仰誓和尚の本は世の中に出なかったので、僧純の本だけが読まれ、妙好人は社会的弱者(文字が読めない、その日暮らしの人達、貧しい百姓等)だという誤解が生まれてしまったが、戦後に研究が進んで、仰誓和尚の本が見つかり、僧純の本はちがっていて脚色されていて、仰誓和尚が出会って感動した人たちは僧侶、医者、役人、女性、子供等様々な人達がいた。
貧しい人たちが教えとともに生きることによって、喜びを得たと言う話に変えていったきらいがある。
15年前、京都から石見に引っ越して、浄泉寺の住職から妙好人の事を調べるように言われた。
聴聞した時に、仰誓和尚、僧純が書いた文章に書かれている妙好人と同じではないかと言う人たちがいっぱいいた。
決して人の悪口を言わない、威張らない、謙虚で常に自らを反省してゆく、生活も慎ましいがしかし人の事を一生懸命考える。
私の人間、人格と言うものを地域の方が作ってくださったんだ、これが石見の「土徳」なんだと気付かされた。
そこに暮らしていた人達の思いが街を作っている、土徳があふれているんだという事を知りました。
因幡の源左
柳宗悦(やなぎむねよし)がいなかったら、この人は誰にも知られない存在だったと思います。
干し柿を干してあると、若い人たちが盗みに来るが、ここが丁度食べごろだと教えてあげる、柿の木があったら息子が取られない様に茨で登れない様にしたら、わざわざ梯子を懸けてやり、(怪我をしない様に) 息子が無くなってしまうというと、そうは言っても結局一番食べるのは家のものだろうと言っていさめる。
普通はあり得ないことを行う、或る意味受け取り方の名人と言っていいかと思います。
人から嫌なことされた時に、かっとなってなにくそ、このやろうではなく、自分自身過去にやった過ちに気付いてゆき反省をする、それを受け取り方の名人と柳先生は言っています。
動物にも心を砕きました。
牛が荷物をしょってくれるが、牛のお陰で自分が楽になったと、牛に心を馳せてゆく。
地域の人達が西田天香さんを呼んで講演会をひらいたが、因幡の源佐が聞こうと向かったが遅れてしまって、聞く事が出来なかったが、あとから聞いてみた処、西田天香さんは「歳を取れば短気になって、癇癪をもつ様になるそれではいかん、我慢で兎に角人を堪忍して上げることが大事です」と話した、源左は「先生、私は実は人を堪忍したことがございません、皆さんが私の事を堪忍して下さるんです。 我慢してくださるのは周りの人でございます、それを有難いと思います」と言ったら、西田天香さんは言葉が出なかったと柳さんは書いています。
西田天香さんの日記には、この事は書いてなかったので、もしかしたらなかった話かもしれない。
妙好人の話は慎重に扱わなくてはいけないとは感じました。
浅原才市
鈴木大拙が世界中に、まれな宗教詩人であると紹介した。
下駄職人 若いころ博多に出稼ぎに行って、船を作る職人だった。
七里恒順先生に出会って、お寺の手伝いをしていた。
真宗を悟った様に思うと言ったことがあり、
「31まで何がえろうなった。 子猿の様な知恵ばかり、子猿の様なはからい辞めて、南無阿弥陀仏を言うばかり」と言う反省の詩を残している。
念仏を理屈で判ろうとしていた、阿弥陀様の教えを素直に頂くという事を教えて頂いた時ついて恥ずかしい思いをしてゆく。
石見に帰ってきて、下駄職人になり、朝と夕に安楽寺に聴聞を重ねるが、自分なりの解釈をかんなくずに汚い字で書いてゆくが、見ているだけで心が躍ってくるような字で、そこにははからいがない、思うままに自分の喜びが表れている。
住職から私に見せてほしいと頼まれて、帳面に清書するが、後に鈴木大拙先生が見て、こんな素晴らしい詩人がいたと言って世界に発信してゆく。
この人に言わせれば、周りの人が何でもかんでも、先生。
「かかあよ お前も全知識さん 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏」という詩がある。
有名になってきて、絵師が貴方を描かしてくれと言って、でき上った肖像画は柔和な顔が描かれていたが、「このような柔和ないい顔ではなく、わしは鬼だ」といって、「頭の上に二本の角を描いてほしい」といって描いてもらった。
「心も邪険 身も邪険 角を生やすが、これがわたくし 浅ましや 浅ましや 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏」
風邪をひいた時 「風邪をひけば咳が出る、才市が御法義の風邪をひいた 念仏も咳が出る出る 御恩(ゴホン) 御恩(ゴホン) と聞こえる」 咳一つも南無阿弥陀仏につながるという。
高鳥九兵衛 (現在の邑南町に住んでいた百姓)
日照りの続いた夏の日に、山へ草刈りに行こうとして自分の田んぼに来たところ、誰かが悪さして、全部抜いてしまって、干上がっていて、飛んで家に帰って、仏壇の前に座り、家族を呼んで、阿弥陀様にお礼を言いたいと思うので手伝ってほしいと言って、一部始終を伝えて、「これはじぶんがむかし同じように人様に迷惑をかけたことがあって、その過ちを今になって教えられていると思うんだ。 若いころだったら、腹が立って、隣りの人の田んぼに行って、うちの田んぼに水を入るようにしたにちがいない、それに気付かさせてもらったのは自分の田んぼの水を止められたからだ、何とも有難い、御礼を言わずにはいられない」
その話が周りに伝えられると、二度と九兵衛さんの田んぼから水を取ってはいけないと皆がよくしてくれたという事です。
石橋寿閑(医者)
神仏などは僧侶が金もうけにやっていると言って、絶対に信じようとしなかった。
自分の小さい娘が病になり、娘が「死んだらどこへ行くんでしょう」と言ったので、「死んだらお浄土という結構なところに行くんだよ」と言ったら、「とうさん どうしたらその浄土にいけますか」と言われ困ってしまって、苦し紛れに出まかせに「南無阿弥陀仏を唱えれば行かせてもらえるよ」と言ったら、娘が「南無・・・」といって唱えたが結局娘は助からなくて、お陰で私は目が覚めましたと言って、仏壇をしつらえて南無阿弥陀仏 を唱えるようになった。
「かけた情けは水に流し、御恩は石に刻め」 朝枝善照先生から教えてもらった言葉。
恩着せがましく言ってはいけないが、人様にしてもらったことは自分の子や孫に伝えなさい。
井戸平佐衛門
石見の大森銀山の代官を1年間ぐらいしかしていない人。
享保の大飢饉が襲った。
人々の苦しみどうしようもない状況だった。
薩摩に技術を取りに行かせて、密かに種イモをもちこみ、わけてあちこちに植えさせたが、気候が薩摩とは違ってほとんど巧く育たなかったが、釜浦の畑で芋が育って、株分けして、うまく育って飢え死にする人はいなかったと言われる。
更に幕府の命令を待たずに、大森代官所に有る米を全部蔵を開けて、皆に振る舞う。(独断で行う)
1733年、平左衛門は大森代官の職をとかれ、謹慎を命じられます。
1年後に亡くなってしまう。
欲しいものを貪って求める、私の欲を人に言ったり押し通そうとする、思い通りにならず愚痴を言う
他人を馬鹿にして優越感に浸ろうとする、盲念を抱いて誰彼となく疑ってゆく、俺が正しいんだと信じてしまう、こういうしょうもないことをやってきたのがこの私なんです、それに気付かされました。
今は有難いと思っています。