故・深谷義治さんの二男・敏雄 孫・富美子 ・私の父・私の祖父は、日本国最後の帰還兵
深谷敏雄さん 67歳 富美子さん24歳
深谷義治さんは太平洋戦争の日本軍兵としては一番遅く、昭和53年に中国から日本に帰国、日本国最後の帰還兵になりましたが、昭和40年代に帰国した横井庄一さん、小野田寛郎さんと違って、日本国民にその存在を広く知られることはありませんでした。
その理由の一つは義治さんの任務に在りました。
大正4年島根県生まれ、22歳で応召し、日本陸軍に従軍、勇敢さと才能を軍に買われて、中国大陸でスパイとして活動しました。
敗戦後も任務を続行せよとの極秘指令を受けて、上海に潜入し、任務を全うします。
その後、中国人の女性と結婚し、子供も4人授かります。
敗戦から13年後、昭和33年とうとう中国当局からスパイ容疑で、逮捕されます。
義治さんは完全黙秘を貫いて、その獄中生活は20年余りに及びました。
残された家族も苦境に陥り極貧生活を送ります。
一家は不屈の精神で耐え抜いて戦後33年経った昭和53年にやっと日本に帰国する事が出来ました。
息子の敏雄さんが6年かけて、父の波乱万丈の人生を綴ったノンフィクションは戦後70年の今年大きな反響を呼んでいます。(『日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族』)
日本語が十分でない敏雄さんの執筆をサポートしたのは日本で生まれ育った孫の富美子さんでした。
本の出版を見届けて今年4月、義治さんは99歳で亡くなりました。
遅すぎた終戦、平和を願う想いについて、義治さんの子、敏雄さん、孫の富美子さんに伺いました。
現在広島に住んでいます。
娘は大学院で東京で暮らしてます。
妻は娘が3歳のころに亡くなり、男手一つでずーっと育ててきました。
444ページある長編ドキュメンタリーで6年かけて書き上げた。
父の事を歴史の闇に葬ってはいけないと思って少しづつ書いて、娘に直して貰って、公民館のボランティアの先生にも直してもらって、やってきました。
上海生まれ上海育ちで、30歳で日本にきたので、日本語の教育を受けてなかったので、大変なチャレンジでした。
娘にパソコンを習って、10年以上前からパソコンで一文字、一文字 娘から日本語の勉強を教わるようになりました。
助詞だけ間違えていれば、何を言いたいのか判るのですが、名詞、動詞うまく使えていなかったので、何を言いたいのか判らない文章が多かったので、すごく大変でした。
父の言葉を誤解して受け取ってしまったり、喧嘩をしたりしながら、二人三脚でやってきました。
開高健ノンフィクション大賞に応募、素晴らしい作品なので出版させてほしいとの話がある。
確認不足で、規定枚数の2倍だった。
父はほとんどもれなく記録して、獄中などで ノート8冊になりました。
釈放されてからも思い出して書きいれたりしました。
父(義治)の悲しさをみてきて、父の声、悲しさを日本中の皆さんに届けなければならないと使命感を感じました。
父(敏雄)は常日頃から辞書をもって勉強してきました。
そのうち、私でも判らない様な日本語を使うようになって、表現するにあたってふさわしい言葉を身に付けていきました。
敗戦後もスパイの任務を続行せよとの極秘指令を受けて、上海に潜入し、上海で任務を続けて、その後昭和33年につかまってしまって、ひどい拷問を受けて、病におかされても放置され地獄の様な日々を過ごすことになる。
その内容の一部
「昭和37年の夏、結核と肋膜炎が治っていない状態だった私は、静養さえ許されず強制的に労働させられた。
11月末重たい荷物を持ちあげようとした時に、ガツっと音がして激痛と共に倒れた。脊椎骨が折れるが病院に連れていく事もなく、治療も一切なく、痛み止めの薬さえもらえず、1年余りの日々、見えない鞭は昼も夜も私の身体を叩き続け24時間痛みに苦しめられた。
私は痛みを少しでも和らげるために、常に腰を曲げた状態でじっと痛みに耐えていた。
面倒を見てくれる人もおらず、腰を曲げたまま地面をはいずりまわらなければならなかった。
洗濯する気力もなく着る服は汚れ放題だったが、胸には常に日本人であるという誇りと一点の曇りもない日本人魂を抱いていた。
この地獄の様なところで骨をうずめることにならない様に全身の力を振り絞って、必死に這ってでも祖国に帰ろう、 私はその強い意志だけで生かされている毎日だった。」
父は帰国してもどんな拷問を受けたのか語らなかった。
逮捕されて16年後(昭和49年)に家族が面会することができたが、父に会った時には10cm縮まっていました。
思い出すたびに、戦争が終わっても、こんな年月がたっても私たちは苦しんでいるという現実に、今でも考えたら涙が出ます。
罪人である反革命分子に対して「お父さん」と言ってはいけない状況だったが、「お父さん」と呼んでしまったが、思いきって呼んでしまいました。
父も涙をぼろぼろ流して、母も妹も全部泣きだしました。
私は(富美子)平成生まれで、戦争を知らない世代ですが、実感がわかないが身近に祖父、父とか実際に戦争を引き摺っている存在がいて、何とも言えない気持ちになります。
表面には現れないが日本にはほかにも一杯いらっしゃるのであろうと考えると、何とも言えない気持ちになります。
義治さんの家族も反革命分子として長男も投獄され、妻は貧乏と差別の中で心が折れて自殺未遂まで追い込まれる。
私は上海生まれ上海育ちですが、父と家族と一緒に祖国日本に帰ろうと思った。
その内容の一部
「氷点下6から7度の寒さに到底耐えることができず、どんなに抑えようとしても身体が震え、歯がガタガタと鳴った。
横にいる古参の政治犯は、このままでは私が死んでしまうのではないかと、みじめな様子を見かねて同情を寄せてくれた。
歯を食いしばりなさい、そうしなければ魂が段々肉体から離れて死んでしまうよと、アドバイスをしてくれた。
私はその言葉を受け止め、極寒の中、魂が抜けないよう渾身の力で歯を食いしばり過ごした。
その極限状態の中、母校の校歌、安来節 関の五本松を記憶から思い起こして、祖国での在りし日を偲んで心を温めた。」
中国からは、スパイとして潜伏していたんだと白状すれば、家族の元に返すと言ったが、絶対に話さなかった。
戦後もスパイとして潜伏していたことを言えば、この事実は日本の名誉を傷つけることになるので。
そのことは家族、自分を犠牲にしたが、今の人達には理解しにくいのではないかと思います。
義治さんは24歳で勲8等受賞 27歳で瑞宝章受賞 優れた軍人であるという事に対しての勲章だった。
祖父が国を思って意志を貫き通したため 周囲の人を巻き込んで沢山の悲劇を生んでしまったと思うが、その歴史があったからこそ、祖父が国を思って意志を貫き通したからこそ、私(富美子)の生活、父の生活があるのだと思う。
祖父が日本の名誉を守り、傷つけなかったことで、救われた人や生活もどこかに在る筈で、祖父の生き方は心から尊敬したいと思います。
昭和53年11月12日、日中平和友好条約締結、特赦で日本に帰ってくることができた。(戦後33年が経っていた)
深谷義治さん 63歳だった。
帰ってきても、軍人恩給が何者かによって不正に申請されて支払われていて、陳情しても聞き入れてもらえなかった全く無視されてしまいました。
亡命者と認定されていた。
20年ぐらい中国で服役したのに、何故父だけこうなるのだろうといまだに思います。
そのために本を書いて疑問を問いかけています、日本のみなさんの答えを聞きたいです。
日本は素晴らしい国ですが、父に対してはあまりに冷たすぎると思う。
国からご苦労様でしたと言ってほしいと思っていたが、父は最後まで聞く事が出来なかった。
父は認められないまま、無念の死を遂げました。
国から言ってほしいかった、「ご苦労様でした」と。
父の名誉回復のため、全力を尽くすつもりです。
これからは絶対戦争を許してはならない。
平和は守らなければいけないと思います。
父の添削を手伝っている時よりも、今の方が何倍も戦争、経験したことに思いをはせる濃さが増したという思いはあります。
父たち、わたし自身が言葉で苦労してきて、泣いたりした日々があり、豊かに言葉と関われる職業を探してきて、紆余曲折があった中で言語聴覚士に辿り着いて、仕事を通して言葉以外の部分から人の気持ちをくみ取って感じながら言葉を含め、その人の気持ちを受け取っていける様な人間になりたいと思っています。