2015年7月14日火曜日

戸川昌子(シャンソン歌手)      ・遺言に代わる”遺歌”を歌う

戸川昌子(シャンソン歌手)      ・遺言に代わる”遺歌”を歌う
1957年から銀座のクラブでシャンソンを歌う様になり、60年近くに渡って歌い続けています。
小説も書き始め、 1962年の処女作「大いなる幻影」で江戸川乱歩賞を受賞、翌年に書いた「猟人日記」が直木賞候補となり、ミステリー作家としての地位も築きました。
戸川さんが長年主催したシャンソンサロンには、三島由紀夫、なかにし礼、美輪明宏などが集い、文化人サロンの走りともなりました。
その後作家と歌手の二つの活動を続け、最近もシャンソン協会の顧問も務め、現役としてステージにもたっています。
今年になって自分の遺言の代わりに、シャンソン歌手としての歌声を後世に残す遺歌とも言うべきアルバムも発表しています。

82歳、還暦も祝い事などなかった。
健康に関する事は一切していない、好きなようにして来ている。
いろんな意味でストレスだらけです。
大手商社(伊藤忠と丸紅が一緒だった)の英文のタイピストとして入った。
英語は禁止の時代だったので、入ってから夜学に通って英語とタイプ等を習いにいった。
会社を務める前は、酒場のお運びをやっていた。
兄が戦争で亡くなってしまったが、唯一持っていたのが一枚のSPレコードで、ダミアン(マリー・ルイーズ・ダミアン)の「人の気も知らないで」、「暗い日曜日」だった。
これが最初のシャンソンとの出会いだった。
ヤマハホールでコンサートをやっていて(レコードを聴く会)、聞きに行ったりしていた。
日本の歌は、いいとこどりの様で、シャンソンはありとあらゆる喜弩哀楽がある。
シャンソンの中身が、小説と似たようなところがある世界だと思った。
それに共感しました。

「大いなる幻影」で江戸川乱歩賞を受賞。
それまで、短編中編を文春等に随分送っていたが、全部没だった。
長編を初めて書いたが、それが「大いなる幻影」だった。
「猟人日記」が直木賞候補となる。
才能が問われるのは2作目だと、さんざん言われました。
映画になったことが拍車をかけました。
作家、歌手、女優、タレント等、忙しく立ち回ったが、一過性だと思っていたので、さめた目で思っていました。
1979年 46歳で男の子を出産する。
当時はどういう風に生まれるかは全く判らない状況だった。(帝王切開)
出産会見は渋谷ジァン・ジァンでのライブ時におこなわれ、、なかにし礼、美輪明宏が一緒についてきてくれた。
その男の子が「NERO」 36歳
かごにNEROを入れて仕事に入っていましたので、自然に歌を聞いていたと思います。
やりたいことをやれる事が人生でいいんじゃないかなあと思います。

7月14日 パリ祭 パリ祭コンサートを今後各地で行ってゆく。
8月は 蜷川幸雄さんの演出、 寺山修二さんの演劇に出る、渋谷で「青い種は太陽の中にある」
舞台の挑戦は初めてで、セリフを覚えることが大変です。
CDを出すことは嫌だったが、NEROに押されるような形で、遺言代わりの様に、NEROと共演の形で行う。
11曲 「ボン・ボヤージュ」 (bon voyage) 「よい旅を」 船出の歌。