保阪正康(作家・評論家) ・昭和史を味わう 第18回 太平洋戦争の日々
(4)戦争末期の庶民生活
庶民生活は近代日本でも一番苦しかった時代。
連合軍の攻撃は本土に来る。飢えと爆撃の恐怖が庶民生活の大きなグラウンドにあった。
昭和19年、20年になると便所への落書き、公共施設への落書き、軍事指導者への投書等が有る。
軍人をののしる厳しい内容、飢えに対するびら等で表現される。(俺達をどうしてくれるんだと言う思い)
憲兵隊、特高 隣組に依る相互監視システム。(密告)
沖縄は本当は負けていると言った人が、流言飛語を飛ばしたという事で逮捕される。
本当の事を言っても逮捕されるという事で有れば、何も言うなと言う事ですね。
B29が飛来して焼夷弾が都市にばらまかれるようになる。
軍の中心は本土決戦をして講和に持ち込むという作戦だが、とても戦う状況ではない。
昭和20年6月に義勇兵役法ができるが、男子は15~60歳、女子は17~40歳迄が軍の中に名前を登録して兵士になるが、計画を見ると特攻要員なんです。
勝までやると言う様な、屈折した考えが有ったと思う。
昭和20年4月7日 鈴木貫太郎内閣ができる。
鈴木は79歳だが、昭和天皇が鈴木を信用していた。(昭和の初めに侍従長をした時代が有る)
「鈴木頼むよ」と昭和天皇からいわれ引き受けることにしたと言われる。
鈴木はなんとしても終戦に持っていくと、決意したと書いてある。
軍は相当抵抗するだろうけれども、決死の覚悟で終戦に持っていきたいとの演説を残している。
吉沢久子 「27歳の空襲日記」の著述が残っている。(現在97歳)
昭和19年11月30日
神田、江東、芝、に爆弾が落ちている。
焼夷弾が落ちてきた悲惨な状況記載。
昭和19年12月3日
着物などの非常持ち出し作る、非常食料作る。
飛行機が飛んでくる様相、空襲、2時間近く何度も来る。近くに爆弾落下、消防ポンプが走る。
ガラスが響くニュース映画の録音の様にドシーンと音がする。
昭和20年1月22日
大根おろし1回分が3日分の野菜の配給量だと聞く。
主食の代わりに何かあればいいが、何としても足りない量では、どうやって行けばいいのだろうか。
私(保阪)は小さい頃(4歳ぐらい)、かぼちゃ、いもを一生分食べたので、いまでも食べない。
戦争は戦う事の残酷さもあるが、人間の嫌な面もいっぱいでてくる。
「はやり歌」
「世の中は星(陸軍)に錨(海軍)に 闇(闇屋)に顔(横流し等特権持っている人、顔役) 馬鹿者(一般庶民)のみが 行列に立つ」
「欲しがりません 勝までは」 一般庶民を縛るスローガン
米の生産量 昭和15年 6000万石 日本人を養う必要量だが 昭和20年では3900万石だった。
吉沢久子 「27歳の空襲日記」
昭和20年2月26日
雪の道をたび一つで歩いている人を見、真黒な顔と手と足をした人を見、兵隊の出動を見、どうしてもこれが戦勝国とは感じられない。 もう戦争には耐えて行けぬかもしれない。
希望のない生活はできないのだ。
昭和20年7月7日
畑を作るために焼け土を掘り返して見ると色々なものが出てくる。(色々な生活用品)
凡てに人の暮しが沁みていて、ふとこれを使っていた人たちのことを思う。
ちりぢりになってしまっていていまどこで暮らしているのであろうか。
こういうところに何かが実るとすれば自然の力というものは大変なものだと思う。
昭和20年8月13日
早朝警報発令 爆音物凄し。
日本はいかなることがあろうとも陛下のお言葉とあれば御意にそいたてまつる。
しかし軍人としてはまだ余力があるのならもうしばらく戦いたくもあろう。
私には何事も言えぬが、兎に角次の時代をどう建設していくかが、私たちも命がけで働かねば成らぬところだが、当分の間食料問題が最大のものとなろう。
私たちもその日のために畑を作らなければならない。
国会の敷地もカボチャなどを植えていて、一般の空き地も畑にしたりしていて、戦争末期の庶民は希望のない生活は耐えられない、戦争を終わらしてほしいというのが、次の希望を生むばねになるのではと感じ取ります。
爆弾で亡くなる被災死、食料が無い事に依る餓死等、生活の中で死が日常の光景としてあるので、こういう体験をしたという事は、歴史的には教えるものがいっぱいあると思う。
そういう時代には成ってほしくないという事を、改めて理解する事が重要かなあと思います。