2015年7月10日金曜日

西澤 孝(探検家・会社経営)    ・チョウが教えてくれた大自然の魅力

西澤 孝(探検家・会社経営)    ・チョウが教えてくれた大自然の魅力
63歳 幼いころから生き物が大好きだった西澤さんは、中学生の頃蝶をつかまえることに夢中になりました。
それ以来日本各地、海外8カ国にも蝶の採取に出かけた回数、60回に上りました。
オーストラリアの北に在るニューギニア島では、珍しい蝶や新種の蝶を発見して、大自然の魅力をたっぷりと満喫しました。
その後、日本で事務の仕事に就きましたが悶々と葛藤を感じる日々が続いたと言います。
トライアスロンの大会に挑戦して、完走できたことが転機となって、38歳で生物をデザインした商品を作る会社を始めました。
商品を通して大自然の魅力を多くの人に伝えたいという西澤さんに伺いました。

虫の立体図鑑、くまのぬいぐるみとか様々です。
本物の特徴や生態、形、太さ、角度などできるだけ再現したいと思いました。
カブトムシの立体的な形だけでなく、カブトムシがいる場所、食べ物、闘争心、おとなしいカブトムシなど本質を商品に表すようにしています。
生物の事をきちっと知る事、生息している自然に興味をもって貰って、もっともっと環境、生物について知ってもらおうと思っています。
お客さんから感想をいただき、更に答えたいと思って、アイデアがどんどん出てきます。

両親が郷里が信州だったので、夏休みは両親に連れられて、高原、渓流でさんしょううおを取ったりイワナを取ったりしました。
上野の不忍池でも、毎日のように生物に触れていました。
中学でも生物部に入って、美しい蝶の標本が学園祭に展示してあってそれを見て感激しました。
何百種類が並んでいて、こんな蝶が世の中にいるのかと思いました。
それから毎週の様に生物部の先輩とともに、身近なところから遠いところまで行きました。
高山蝶を見て天国に上る様な気持がしました。
高校2年の時に沖縄に行きました。
本島、石垣島、西表島で亜熱帯の独特な蝶がいました。
飛び方も違いました。
高校3年の時に北海道に大学生と一緒に、車で大雪山、十勝山脈の林道とか、色々回って、高山蝶を捕ることができました。
経験を通じて、蝶の居場所の特徴とか、特性を理解できるようになりました。

父は蝶を捕る事に理解を示してくれて、計画を説明すると、お金を渡してくれまして、本当に感謝しています。
大学に入って、1973年 ニューギニアに6回行き、4回は日本人で初めての土地に入っての探検でした。
蝶の採取をしている人には憧れと言っていい、トリバネ蝶がいて、どうしても自分で取りたかった。
見渡す限り原生林があり、誰も入ったことが無い、素晴らしい体験ができたと思います。
危険と厳しい自然環境の中で隣り合わせだったが初めての体験をしました。
24歳の時に、ロスチャイルドトリバネアゲハを50数年ぶりに発見する。
夢中で追いかけて、網から僅かに逃げてしまった。
身体の模様がとらの様に、黒の地に、グリーンと黄金色と言えるような黄色、白が入っている。
帰りに又であって慎重に近づいて、一気にネットを張ったら、ネットの中でもがいていた。
何度も何度も、どういう模様をしているのか、確認しました。(感激と満足の本当に幸せの瞬間でした)

村の村長さんにあいている小屋を紹介してもらう。
子供は好奇心が強くて毎日私を見に来る。
彼らは缶詰め、飴、身体を洗う石鹸なども全て初めてでした。
食料を与えたりして食料が無くなってきたときは、いもだとか鳥を弓矢で捕ったものをもってきてくれた。
言葉は「何」をさきに覚えて、指をさして、段々言葉を覚えていった。
村の人たちに段々溶け込んでいった。
文明の道具(カレンダー、時計、マッチ、電気等)はないが、何が人々にとって大切か、何が日々生活の中で自分たちは暮らしているのかとか、その人たちの生活を通じていろんなことに触れれば触れるほど文明とはどんなものかとか、自分とって、そういう物はどういうことが意味あるものかを、すごく感じました。
全然違う環境にいるが、人間として同じなんだと思いました。

熱帯熱にかかって、薬を飲んだが全く効かなかった。(27歳の時)
日本に帰ってくる事になる。
東大の医科学研究所に行って、ようやくわかった。
海老沢先生に診てもらったら、即入院の状態だった。
新薬を投与する事になり、効いてようやく治った。
父から事務の仕事をしなさいと言われて、体力回復のためにジムに通い、水泳などもやっていたがトレーナーが遠泳大会に出たらと誘ってもらった。
ハワイでトライアスロンがあるから、それにも出ないかと言われた。(水泳3.84km、ロードレース179.2km、マラソン42.195kmを連続して行う)

話を聞いて自分の気持ちの中でむくむくと大きくなって、その晩に決意した。
レースの準備をするように、練習を8か月重ねた。
日本から8名が参加、日本人の中で2位になる。
それがきっかけになって、仕事も本腰でやると思う様になった。
父の会社は大企業の下請けのもの作りをやっていて、海外に行く機会があり、綿花を色々な地域で見て違いがあり、自然環境がその植物、綿花を作るのだという事が凄くわかった。
原材料から商品になるまでのプロセスを凄く学びました。
どういう風にしたら、雨に強いバック、頑丈なバッグができるのかなどを考えました。
生物自然を体験した体験知識、実社会での素材を生かした商品作りの経験、ノウハウを掛け算して、エネルギーを本気でぶつけられる商品を作ってみたいと感じた。
  
自分のライフスタイル、価値観に合う納得のいく仕事、事業化するために勉強しました。
1990年4月、息子が小学一年になるときに、社会の一年生になろうと、合わせて会社を作りました。
38歳の時です。
動物園、、水族、博物館に営業していこうと思って計画し、全て回るという事で行いました。
蝶で培った観察力を経験で学んでいたので、どういう水族館だったら、どういうお客さんが来て、どういう商品だったら受け入れられるかとか、自分で感じました。
蝶の時と違って日本語が通じる事は、何よりも全てがオールマイティーで進めることができました。
熱意を感じてくれて、事務室の隣で売ってあげるとか、教えていただいたり ドンドン土台が積み重なっていったと思います。

蝶を通して、何物にも代えがたい感激、充実感を沢山味わい、色々な人々と合って、心に触れて、そこの環境とその人たち、その生物がいろんな形で成り立っているのを感じました。
自然環境が大事だと思いました。
生物たちの形、色、模様、習性、生態を商品におとして、それを通じて伝えることで、自然の中で直接触れるきっかけに、或いは自然環境の事を理解する事について広がっていってほしいと思っています。