藤川汎正(画家・銅版画家) ・創作の源は、古事記とメキシコ
1940年岡山県笠岡市生まれ 1963年武蔵野美術大学西洋画科を卒業、在学中自由美術協会の美術展に神話をモチーフにした作品を、初出品初入選しています。
1968年から6年間メキシコのグアナファト大学に造形学部に留学して、銅版画を学びました。
修行の傍らメキシコ美術に接して、テーマや技法を広げました。
帰国後は東京都内をはじめ、笠岡市、倉敷市で精力的に個展を開いてきました。
2004年には笠岡市立竹僑美術館で、「藤川汎正展神話を旅する」を開催、その際藤川さんの作品が多数笠岡出身の日本画家小野竹僑ゆかりの美術館に寄贈されました。
藤川さんは去年10月から2カ月間メキシコに滞在して、新たな創作の道を模索しています。
メキシコは今回で3回目。
メキシコからの要請があり、行きました。
モチーフが決まり切っていて、どうにかしたいと思っていて、写生三昧でした。
前は眺める様な写生だったが、本当の写生は観察、今になって判りました。
今回墨をもって行ったので水墨に初めて挑戦してよかった、墨は消せないので真剣勝負です。
汎正は「ひろまさ」ですが、小学校の担任の先生が」ぼんせい」と言ったので、これはいいと思ってこれを使ってきました。
父親が国鉄に勤めていて、官舎にいて私は祖父母に育てられた。(笠岡市)
中学の時に風景画で賞を貰って、それが一つのきっかけだったと思います。
高校時代は柔道部に入る、船乗りにもあこがれたが、祖母から反対されて、絵描きになりました。
武蔵野美術大学を受験、西洋学科に入る。
麻生三郎、山口長男、三雲祥之助、森芳雄、井上長三郎、そうそうたるメンバーでした。
自由美術協会の美術展に神話をモチーフにした作品を、初出品初入選しています。
笠岡市に帰ってアンフォルメル(抽象画みたいなもの)を描いていて、田村さんが必ず全部褒めてくれて、これは全部悪いと同じだと思って、行き詰まってしまった。
版画集を見て面白いと思った。
藤原啓(備前焼)のところに来ていたメキシコ人ゴルキーゴンザレスがいて、メキシコに行きたくて、黒住教の黒住宗晴先生の仲介で、入学手続きをしてくれて、メキシコに行く事にした。(船で行く)
グアナファト市のグアナファト大学に留学、留学の授業料はただだった。
ガイヤルド教授が深沢幸雄を知らないかと言ったが、知らなかった、たまたま送って来てくれた週刊誌に深沢幸雄の記事があり判った、深沢幸雄はメキシコで銅版画の講座を開いて、教授はそのうちの教え子の一人だった。
様々な技法を学ぶ、壁画、3大画家オロスコ、ディエゴ・リベラ、シケイロス メキシコ革命に連動して壁画を描いた。(メキシコ革命 1910~1940年)
1400か所に壁画を描いたが、文字を読めない人に対しての、目での壁画の運動だった。
素晴らしい作品群で吃驚しました。
グアナファトは世界文化遺産になる。
スペインの植民地だった街で、銀の産出が世界の1/3が取れた時代があった。
2003年に「メキシコの夢」(100号) (荒木雄一郎さんが応援) 竹僑美術館に100号の絵を描きました。
その展覧会のポスターになりました。
古事記をテーマにする、ヨーロッパはギリシャ神話、聖書などから絵を描いてゆくが、日本人では何かないかと思って、日本に戻って来てから、荒木雄一郎さんのアドバイスもあり、始める。
メキシコで最初にあった人で、メキシコ大使館の参事官の林屋永吉が「ポポルヴフ」マヤの古事記を描いてる本を手にして、それにも影響を受けたと思います。
神話をテーマにする作家はあまりいない。(神話、物語は大好きです)
絵の出発は白い紙に点を打った後から、ずーっとインスピレーションのつながりで絵ができるので、できてからでないと判らない。
一見して心地よい絵ではない。
ブリューゲルの作品にも不気味な絵があるが、一番好きなのがウイリアム・ブレイク(イギリス)。
荒木雄一郎さん 1975年頃から色々指導も受けてきた。
あの人がいなかったら私はいないです、奥さんも凄かった。
絵の中に「へそ」を作れと言われた。
上薗四朗さん 竹僑美術館の館長、応援してくれて個展の開催までこぎつけてもらいました。
「神話を旅する藤川汎正」というタイトル 2004年
友人の奥さんが日本画をやっていて、素晴らしい絵を描いていて、その顔料を段ボール2箱友人がくれて、日本画をこれから一から勉強して描くつもりです。
郷里の隣り街にいばら市があり、木彫家平櫛田中(ひらくしでんちゅう) 「70、80鼻たれ小僧 男盛りは100から 100から」と言う言葉を残しており、まだこれからです。