オール巨人(漫才師) 漫才も闘病も全力投球
昭和50年のデビュー以来、不動の人気を誇ります。 背が高い方がオール巨人さん、大坂生まれ62歳
常に第一線で活躍し、順風満帆の漫才人生に見えましたが、影を落としたのがC型肝炎。
しかし、仕事を続けながらC型肝炎ウイルスを無くす治療にチャレンジしました。
更に何度もあったと言うコンビ解消の危機、オール巨人さんは常に全力投球で乗り越えてきました。
来年40周年、考えたこともなかった。 短い感じがする。
昭和26年生まれ、良く笑わしていたようです。(物マネを良くやっていたようです)
高校卒業後、実家の卵問屋を手伝いながら、素人の演芸番組を次々に出演していた。
TVに出たりするようになると、商売がうまく行く様になる。
私は一人で漫談、物マネをやっていて、山田さんがアマチュア軍団を作って、慰問に行こうと動いて、それでオール阪神さんと出会った。
2人大きいのと、小さいのと、面白いから漫才をやってほしいとあるプロデューサーから言われて、やったところ面白くて受けた。
吉本に入ったらどうかと言う事で、吉本に入ることになる。
弟子にならないと、吉本に入れないとの事で、岡八郎さんが弟子に逃げられたばっかりで、困っていたために岡八郎の弟子になる事になる。
きつい師匠で、一月持たないと周りから言われた。
師匠とは相性が良かった、兎に角失敗しないように気を付けた。
卵の商売をやっていたので非常に細かいところまで気を付けていた、それが役に立ったと思う。
師匠を送るために、事前に50ccのバイクで走って、一番いいルートを考えたりした。
飲み物の事についても、色々事前に調べて、師匠から喜ばれる様にした。
酒を飲みに行くときに、師匠は財布を預けれくれるが、悪い人もいて、財布を無くしたと嘘を言ってお金を誤魔化す人もいた。(師匠も判っていたのではないか?)
岡八郎 全部がアドリブの様な感じでやっていた。(舞台人)
漫才でも同じだが、台本の通りやっていると思われると、芸人の負けです。
師匠は凄い読書家だった。 台本を覚えるのは師匠は早かった。
師匠の白い衣装にジュースを掛けてしまったことはあるが、周りではこれは殴られると思っていたようだが、「洗濯屋へ出しておけ」と言っただけで、何にもなかった。
周りでは、どうしてやと、きょとんとしていた。
二人が組んで始めたが、面白くないと、お客さんから、中味が入った缶ジュースを投げられたこともあるが、直ぐにお客さんから喜ばれる様になった。
稽古は3時間を毎日8年間やっていた。(阪神君がおかしくなるぐらい)
殴り合いのケンカは無かったが、1週間に1回は大きな喧嘩はやっていた。
先ずは3年間は別れない様に、目標を決めてやって、3年間が過ぎるころは人気が出ていた。
上方漫才大賞を3回貰っている。(あとは「やすし、きよし」だけだった)
阪神君が別の仕事で、出番に大変遅れてしまって、なんとか先輩、師匠らにお願いして、穴を埋めてもらっていたが、帰って来た時にあまり反省の色が見られない様な、雰囲気があり、大喧嘩になり、これでコンビは解消だ、というはめになったが、仕事がその後も入っており、やっているうちに、仕事が入ってきて、現在に至る。(解散問題は解決していない)
今は仲がいい。
漫才のライバルは沢山いたので、ある意味でラッキーだった。
42歳の時に、仕事に行って、お腹が痛いと言う事で、調べたら盲腸だった。
手術をするときに、血液検査をやって、C型肝炎で有る事が判った。
自覚症状がないまま進行する事がある。
輸血、血液製剤の投与、適切な消毒をしない器具を使っての医療行為など、血液を介して感染する、半分は感染源が不明、日本の感染者は150万~200万人と言われる。
妻がC型肝炎だった。 私は60歳前までは放っておいた。(18年間) 自覚症状がなかった。
2010年2月から治療を開始した。 週に1回抗がん剤の注射を打つ。
レベトールと言う薬、体重に合わせて飲む。 注射と薬の副作用が辛い。
立ちくらみ ヘモグロビンは酸素を送る仕事だが、人の空気の半分で生きている。(高山で仕事をしているようなもの) 味覚障害、耳鳴り、寝れない、爪が柔らかくなる、・・・・・。
兎に角最後まで治療をやろうと決めていた。
私が仕事を休んだら、お客さんに申し訳がないと、一日も休んだことはない。
舞台に上がる5段の階段がしんどい。
荒い息が止まらなくて、途中で倒れそうになった時が何回か有った。
体重は8kg痩せ、顔もげっそりし、顔色も悪くてほほ紅をしたりした。
TVでやったネタは舞台では絶対やらない様にしている。
72週治療して、半年再発の確認をして、よくなった事が確認された。
飲酒も再開できたが、止めていたいたので最初はなかなか誘ってもらえなかった。
妻は私が治ってから、半年後に治療をして、半年後に治った。
(それまでに2回治療したが駄目だった。)
若い方からお年寄りまで、判る様な漫才をやらなければいけないのかなあと思う。
「いとし・こいし」先生の様な漫才師になりたい、と思っている。