相原恭子(作家・写真家) 私の心をとらえたドイツの魅力、京都の魅力(1)
横浜育ち 幼きころから本、絵画、音楽が好きで、アルプスの少女ハイジーや、ベートーヴェン、バッハの音楽に接し、ドイツに興味を持ちました。
慶応大学で、美学、美術史を専攻、その後ドイツでドイツ語を学び、ドイツ政府観光局に7年半勤務しながら、ドイツは勿論、ヨーロッパ、アジアへも旅して各国の歴史や文化、風土にも関心を高めてゆきました。
写真は登山とカメラを好んだ父を見て育ち、観光局時代から一眼レフカメラを手に、各地の印象をメモしながら旅をしたと言います。
やがて文章と写真で旅の感動を伝えたいと思う様になり、仕事で知り合ったジャーナリストからの進めもあって作家として 20年前に独立、紀行のエッセーやビール、お菓子などの食文化や美術工芸品等をテーマに多くの著作を発表してきました。
近年は国際交流基金や企業の女性、ヨーロッパの友人等の支援などを得て、ヨーロッパ各地で講演会や写真展を開いています。
ドイツ語は幼稚園ぐらいからアルプスの少女ハイジーを読んでそこが根っこになっているかもしれません。
そのあとベートーヴェンの悲愴、月光、熱情とかを聞いてすごく感動して、その後、バッハの音楽、写真集などを見て ライン川の風景等を見ているうちに魅かれていった。
学生時代、ホーフマンスタール ヘルマン・ヘッセ、とかいろいろ読んでドイツに行ってみたいと思う様になった。
慶応大学では美学、美術史を専攻して、遊戯論 遊びと芸術創造をテーマにした。
ロジェ・カイヨワの 『遊びと人間』 ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』とかテーマにした。
第一外国語でドイツ語を選んだ。 第二外国語が英語だった。
就職は真珠を扱っている会社だった。 アクセサリーが好きだったので。
大学4年の時に卒業旅行でヨーロッパにいって、大変インパクトを得て、忘れられなくて、もう一回ヨーロッパに来たくて会社を辞めて1年ちょっと行った。
2カ月したら突然ドイツ語が聞こえるようになった。
聞こえてきたらいくらでもしゃべれるようになった。
ドイツ政府観光局に7年半勤務することになる。(ドイツ商工会議所の友人から勧められた)
秘書の様な仕事をしていたが、日本でも色々イベントがあり、司会、通訳などをしたりした。
当時の所長が手紙などをたくさん書く人で、殴り書きなので大変だったが、慣れてくるうちに、ドイツ語の表現の勉強になった。
作家、写真家になるきっかけは?
ドイツ以外の広い世界へ仕事の領域を広めたかった。
日本のジャーナリストとドイツ各地を一緒に回ったりしているうちに、取材とはこういうものかと自分でもして見たいと思った。
相原さん一生懸命説明するんだったら、自分で書いた方が早いんじゃないと言われて、書くのは大変と思っていたら、あるところからいきなり電話がかかってきて、その人と会った。
色々聞かれるうちに自分は何をしたいのかを考える機会になって、人に近づきたい、人に感動を伝えたいという事が判って、そういう事だったら、一人でやった方がいいですよと言われた。
好きなことをやろうと、旅の感動を伝えるという仕事をする、旅の感動を伝える事を書いたり、写真を撮って人に読んでもらいたいと思って一大決心をした。
知り合いのサンケイスポーツの方にうちで書いてみると言われて、書いてみたら、それでいいんじゃないの、と言っていただいた。(ドイツビールの事についての記事だった)
雑誌でも、ヨーロッパの見どころガイドの記事を書いた。
父がカメラが好きで、登山をしては写真を撮って、暗室で現像してパネルにはるという事を、子供のころから見ていた。
子供のころに写真を撮ったこともあった。
ヨーロッパに旅行したときには、コンパクトカメラだったが、7年半いたときには一眼レフを購入した。
写真と言うのはアングルを決めてシャッターを切るたびに頭に情景が全てプリントされるような感じがするので、書くときにも役立つと思う。
「ドイツ地ビール夢の旅」 初めての著作
ドイツのイベントでお会いした時の編集長さんが、いつかうちでも本をと言ってくださって、いくつか企画を描いたが、それはビールですよと言われて、「ドイツ地ビール夢の旅」と成りました。
初めのころは、書店に行って自分の本はどうだろうと、のぞきました。
カルチャーセンター、市町村文化会館、ロータリークラブ、医師会、美術館とか色々なところで講演をしてくださいとの要望があり、本当に有難いお話だった。
人との出会いがあることが又たのしみだった。
人脈として仕事につながるだろうとの気持ちよりも、お友達感覚、大事な人というか、そういう気持ちで思っている。
ベルギーのグルメの本
編集長さんと話をしていたら、若い編集者を連れて来て話すことになり、ベルギーについては、と言う事になり私も何度も旅行したので、食べものと言うのもいいんじゃないかと言う事で、ベルギーグルメ物語となったわけです。
フランス語、ドイツ語、フラマン語 が話されている。
英語よりもドイツ語の方が親しく感じて色々なことをしゃべってくれるので、よかった。
ヨーロッパに菓子紀行 40回あまり連載した。
お菓子を背景にいろんなことが見えてくる。
ポルトガル 日本にも来て、長崎には非常に似た鶏卵そーめんとか、卵を使った菓子があるが不思議です。
お菓子を通してEUの繋がりみたいなものが、見えてくることがある。
そういう事を視点に書きました。
忘れられない出会い。 ピット・シューベルト 登山家 国際安全委員長 たまたま通訳を頼まれた。
山の事は判らないので通訳はできないと言っていたが、他に人がいなくてやることになり、ミュンヘンでお会いして、いい方だったのでお受けして、日本に来て講演をした時に通訳をして、色々非常に興味深かった。
登山は勉強することではない、山は登るものだから、一緒に山に行きましょうという事になった。
訪ねて行って、近所の山に登る、それからアルプスに登りましょうという事になり、アルプスに登ることになる。
一眼レフをしょって、4泊5日で いきなり登った。 忘れられない経験だった。
ロッククライミングをしようと、今言われている。
人に判ってもらえるように、書こうと思っている。
私は女性であることにあまり意識しないでいるし、それなりに受け入れられている。
(取材の対象が、広がって陶磁器とかにも本にされているが、共通のものがあるのか?)
美しいものと美味しいものが好きです。
陶芸品には興味がある。
歴史みたいなものが陶磁器からも見えてくる。
いろんなものに興味を持っていると本当に話が繋がってゆく。
現場と机上の学問が往復できるという事は非常にメリットがあると思う。
ヨーロッパにの文化と日本の文化 別の事に通じる事が自分の足元を深く認識する土台となる。
自分を第三者的に見ることができるような気がする。