森村泰昌(美術家) 語り継ぐことの大切さ、美しいとは何か
セルフポートレート、自らが映画女優や名画の登場人物などに扮して、生身の自分を通して過去を蘇らせ、現代社会を痛烈に、えぐり取ってきました。
内外で美術館で個展を開き、「なにものかへのクレイエム(鎮魂)シリーズ」では、語り継ぐことの大切さ、美しいとは何かを問いかけてきました。
そして今年横浜で開かれている、現代アートの祭典第5回横浜トリエンナーレ2014ではアーティスティックディレクターとして指揮をを取っています。
今回のテーマは「華氏451の芸術、世界の中心には忘却の海がある」というものです。
大きな災害や原発事故について、沢山の人が語っているが、語る人よりも取材拒否をしたり、沈黙を保っている人の方が圧倒的に多いはず、沈黙には多様な沈黙がある。
それらの沈黙の重みは記録化されないし、黙っているから無かったことになる。
芸術の眼と言うのはそういった気がつかないところをきちんと眼を向けることだという、森村さんに未来に語り継ぐ美術の役割、明日を見据えたアートのあり方について聞きました。
横浜トリエンナーレ2014が始まって1カ月、子供が非常にたくさん来てくれて驚きました。
テンポラリーファンデーション 立体作品 大人にとって一番難解な作品と思われたものが子供に一番人気があった。
子供は反応を素直に表現する。
判らなくても全然かまわないと思う、特に美術などは、いろんな思いを託して一枚の絵をまとめ上げるので、それが判ったなどと言うのは芸術家に対して失礼だと思う。
第一印象、新鮮な感受性があるとそういったものを感じる。
身体、心に残っていて、色々体験を経て5年、10年経ってふっと判ったりする。
或る展覧会をやった時に、家族と小学生の子供がいたが、その子は怖くて入れなかった。
20年後に、同じ作品で同じ場所で行ったが、1通の手紙が来て、(入れなかった子供だった子から)
感動したので思わず手紙を書きましたとの事だった。
今回のテーマは「華氏451の芸術、世界の中心には忘却の海がある」というものです。
レイ・ブラッドベリというSF小説作家の本の中に書かれている。 『華氏451度』
本なんて読む必要がないので燃やしちゃえ、と言う話。
本を読むとは何なんだろう、と考えて、それぞれいろんな考え方があるんだなあと知る事になるんだんなあと、そんなことをしていると世の中統一出来なくなるので、本を無くしてしまうのだが、何も考えないで遊んでいると、その間に世界戦争が起きて社会が滅びてゆく。
私たちにとって大事なもの、大切なものを忘れてしまうと、とっても怖い事になるよと言うのが、このレイ・ブラッドベリの未来の私たちに向けた警告の書だと思って、今回は「忘却」をテーマにした。
或るとき忘れてしまう、新しい一歩を踏み出すこともあるが、情報化社会、情報化する事にあくせくする。
本当は情報化されていない領域は、海の様にひろくて深くて重いものが、世の中に一杯あることをついつい忘れてしまう。
世界認識がとっても狭くなる。
表現は、一般的にドンドン色々なことを饒舌にアピールする事。
物凄く美しいもの、物凄く悲し出来事、物凄く腹立たしい時に出会ったとき、言葉が出ない、絶句する。
その時情報量としてはゼロ、でも沈黙の中に含まれている重いもの、深いものは有るはずで、そこに眼差しを向けることは、とっても大事なのではないかと思う。
忘れることは一種の智慧、忘れる事とどう付き合うか。
大切な人が亡くなったと、ずーっと引きずっていると生きていられないので、宗教的な儀式とかで徐々に距離を作ってゆく事で、懐かしいことなどに置き換えてゆく智慧を日本人は持っていると思う。
一気に何かが忘れられて、一気に何かが変わって、周りの事がなかったような事になってしまった様な忘却があって、新しい情報が上に積み上げられる、それがどんどんスピードアップしている。
今の時代はそうではないか。
人間の生きるサイクルとは、どうも違うのではないか。
忘却のあり方が、危険だと思う。 (世の中がドンドン変わってゆく)
1985年 最初私がゴッホに扮して写真にした。 自分の作品は過去形。
過去を新しい器に移し替える事によって、何か今のものに響く様にしてゆく手法だった。
前回20世紀という時代をテーマにした。
ちょっと前の時代は大切にしないで、うっかり忘れる。
写真のフィルム、デジタル化されてきて、あまり製造されていない。
ちょっと20世紀を振り返ってみようと思った。
世の中がドンドン新しく、スピードが速くなってゆく中で、大事なものまで捨てていってしまうというところに対する危機感。
歴史は上書きされてゆく世界ではあるが、過去のものがジワーッとその上に滲み出て来て、にじみは感じるのが普通だったが、沢山上書きされてしまうと、下の層は滲みきれない、そうすると新しいものしか知らない様な感じになってしまうのでは。
こういう時代にしてしまっているのは大人なので、大人の責任なので、若い人に謝ってから、ではどうしたらいいのかと考える、と言うのが本来ではないかと思う。
私の作品作りは間違っていなかったのではないかと思う。
昔のものを引っ張りだして、それを今どんなふうに受け継いでいったらいいのだろうかと、次世代に作品として伝えると言う事をやってた様な気がする。
展覧会ででちょっとした手がかりがあると世界が見えてくる、と言う事があるので私の音声ガイドで語りかける、「子供に語る芸術の心」のカタログ、 この二つを手掛かりに作品を理解してもらう様にしている。
これをやることによって優しい言葉、文字で説明するので、自分に取って勉強になり判ってくる。
今回の展覧会の一番おいしいところ、エッセンスを凝縮した、「忘れ物」と言う本一冊が一つの展覧会になっている。
私は、次世代に学べですね、質問されると一生懸命考えなければならない。
お互いに学び合うという関係だと思う、世代は関係ないと思う。