上岡陽江(ダルク女性ハウス代表) 依存症を乗り越えて支える(1)
57歳 10代から20代にかけて経験した薬物依存、摂食障害、アルコール依存を克服して1991年に薬物やアルコール依存の女性を支える、ダルク女性ハウスを設立しました。
ダルクは英語で薬物依存者のリハビリ施設を意味するDrug Addiction Rehbilitation Centerの略ですす。 現在、全国でおよそ50か所あり、薬物依存者が社会復帰を目指しています。
入寮は7人が定員で、通所は20人が定員で、23年もやっているので、周り住んで子育てしている人もいるので30人程度出入りしています。
私がアルコールと薬物をやめたのが27歳の時です。
26歳の時にアルコールをやめて、1年間の入寮をした。
依存症の症状が凄い時は、問題が複合的になっているので、見えずらいし、別な意識になっているので判りずらい。
振り返ると、小さいころからぜんそくがひどくて、小学校6年~中学3年まで病院に入院していた。
なんでも一人でやろうと決心していて、当時オイルショックの前でした。
小児病棟は40人ぐらいいて、通う養護学校があり、私は入院しながら学校に通っていた。
同室の友だちは、ネフローゼ症候群、リュウマチ熱、慢性耳炎、 男の友達は筋ジストロフィー、心臓病とか生まれた時から内臓器系疾患がある様な長く生きられないような友だちが一緒に育っていた。
友だちを亡くす事は大変で、葬式は無くて風のうわさで聞いて、誰も説明をしてくれない。
如何に誰かの死を迎えるときに、どう云う風に周りと接するか、が大切なのかが判ってくる。
喘息の発作を起こすのが怖くて、今は発作を起こさせない様に早く薬を飲むようにしているが、当時は薬を飲まない様なやり方があり、そのため子供達は薬を飲まない様な競争をしていたが、実は薬を盗んで溜めて薬を飲んでいた。(そこから振り返ると始まっていた)
摂食障害でもあったので、中学3年の時に過食になっていて、問題があったら自分で乗り越えて、親に言わないことが子供の掟だった。
我慢が競争の様になっていた。
美味しいという感覚はなくて、安心するだけの為にだけ、食べていた。
その後自分で子供を生んだので、子供ってこんなにのんびりしているんだと、子供には教わった。
絶えず駆り立てられるように、いろんなことをしていたし、さびしかったし、だれにも相談しないと決めてしまっていたので、辛かった。
退院して高校に通う様になって、だれにも相談しないこと、自分で乗り越えることが一番いいことだと思っていた。
生徒会長もした。
高校2年の時に、ずーっと一緒に座っていた子が突然亡くなってしまって、私も死ぬなと思った。
そこから現実感が無くなってしまった。(特に夜になると)
思いっきり泣いたりすればよかったのに、どうしていいかわからなかった。
手当たりしだいに、アルコールを飲む、処方薬を飲む、男の人と付き合うという事を3年ぐらいから始まってゆく。
高校では拒食に成っていた。 食べては吐く様になっていた。(親には気付かれない様にしていた)
色々重なり過ぎていて、今日を乗り越えるのに精一杯だった。
大学受験に失敗して、予備校に行っているが、アルコールを飲むようになった(特に土、日)
気を失うぐらい飲み、飲み始めて直ぐにアルコール依存になるなと思った。
道で倒れたり、自分が何をやったか覚えていないようなことが、19歳で飲み始めて直ぐに起きた。
依存症になるタイプの人は少し融通がきかない、柔軟性に欠けると思う。
26歳でアルコールをやめるまで3年間は、連続飲酒で、兎に角朝起きた時から飲み始める。
3時間飲んで、4時間倒れちゃうみたいな、そんな感じだった。
アルコールが入ると体が反応してしまってアルコールが出ちゃって、吐きながら飲んでいた。
アルコールが抜けてゆくと、体中震えて、寒くて、末梢神経がやられて足の裏の感覚が無く立てない。
女性の方が依存症になりやすい。
身体が小さいから同じ量を飲むと身体の血中濃度が上がる、肝臓の大きさが違う。
「妻たちの思秋期」と言う本がでて、キッチンドリンカーという言葉があって、そういった事ががあるらしいと言われていたが、摂食障害は無かった。
自分では隠す様にするが、問題が段々雪だるまのようになってしまう。
結婚しようと思っていたときに、アルコールを辞めて結婚しようとしたが、どうにもならなくなり、恋人、友だちに電話して私は死ぬと言った。(その前に歩道橋から飛び降りようと2回ぐらいした)
友だちが横浜の寿町にアルコール依存症の活動をしている人を知っていた。
連れて行ってもらって、アルコール依存の自助グループの人たちと出会って、やめられるかもしれないと思ったが、自信は無かった。(辞めている人のそばにはいたかった)
今でも自信は無い。
私は31年前、入寮と通所をしました。
あと10日待ったら入寮の施設ができるという事で、10日間は友だちの家で過ごして、入寮する事になる。
両親には言えずにいて、両親にアルコール依存で施設にいた事を説明できたのは、1年経ってからだった。(施設をでる頃)
一日3回テーマを決めてミーティングをする。
どんな時に飲んでいたか、自分の希望はなにか、どんな失敗をしたかなどを話す。
禁断症状は辛かったが、同じような経験を話すので、自分だけではないと安心はした。
アルコール依存、薬物でどれだけ家族にいかに迷惑をかけたとか、自分をいかに傷付けたとか、客観的に自分を見つめることができる。
施設から出た時に、自助グループに通う様になる。
26歳から7年間ぐらい行っていた。
止めて16年ぐらいは、飲酒要求、薬物使いたいという思いはあった。
同じようなことも仲間のうちに起きているから、仲間内でいろいろな話をするので、家族との関係改善しようとプレゼントしたりして、家族に受け入れてもらえなくて、飲んでしまったりする仲間の話とか、迷惑をかけた人に対して返してゆく事はそんなに簡単ではないと仲間の話から教えてもらったりする。
自分の失敗は仲間の宝と言う感覚がある。
失敗が大きければ大きいほど示唆的になる。
今の自分から当時の自分に声をかけるとしたら、なんて声をかけるか?
大丈夫、治療につながれば何とかなる、友人が世界中に出来るから楽しみにしたほうがいいよ。
男を一杯追いかけなくていいよ、男よりももっと信頼できる女友だちが一杯出来るよ、と言ってあげたい。
依存症になって良かったと思う、施設と出会い、世界中に友達ができたし、自分が恐怖だった友人の死を友人たちと分かち合う事が出来た。
乗り越えるというよりも、生き延びると思っている。
家族が協力的だったので、仕事、自助努力活動も出来た。
良い時も悪い時も含めて、越えてゆくと言う感じを、施設と出会った、生き延びている仲間たちと出会ったときに、仲間たちが温かく迎えてくれたという事は私の記憶の中に残っていて、出来れば私もそういう風にしたいと今でも思っています。
1991年にダルク女性ハウスを設立 23年になる。