2014年9月15日月曜日

高橋淳(日本飛行連盟名誉会長) ・今日も飛ぶ、91歳現役パイロット(2)

高橋淳(日本飛行連盟名誉会長)   今日も飛ぶ、91歳現役パイロット(2)
今日は戦後の話。  戦後7年間、昭和27年までは日本では空を飛べなかった。 
いずれは空を飛べるのではないかと、希望は持っていた。
昭和27年 グライダーを教えてもらっていた教官と偶然に新橋で出会って、グライダークラブを作ることになり、好きな人を集めた。
誰かがグライダーの図面を持っていて、自分たちでグライダーを手作りで作った。
当時藤沢に藤沢飛行場(ゼロ戦の基地だった)で、そこでグライダーを飛ばした。(大きなパチンコみたいなものでやろうとしたが、)自動車で飛ばそうと始めた。
日本航空が定期便を始める。  3機チャーターして始まった。
応募したら合格したが、まだパイロットとして乗れない、操縦はアメリカ人との事で、パーサーとして乗ることが前提だったが、それは嫌だったので、蹴飛ばして帰ってきてしまった。
3機のうち1機は羽田を飛び立って、大島の三原山にぶつかって全員死んでいる。(もく星号墜落事故
若し日本航空に入っていたら1/3の確率で亡くなっていたかもしれない。

昭和28年に社団法人で日本飛行連盟と言う組織を作った。
飛行機をセスナ1機寄付していただいて、その飛行機で教官としてパイロットを再訓練して、民間の免除をとらせて、日本航空、全日空、の前身が色々あったので、そういう会社にパイロットを養成する仕事をやっていた。
その仕事は安いので、ビラまきなどをしたり、宣伝アナウンス等をして稼いで、何とか維持していた。
戦時中は敵がいて弾が飛んでくるが、戦後は敵は天気、天候は大変な敵でこれに逆らったらいけない、巧く付き合わなくてはいけない。
言葉は英語で50~100覚えていればいいので、大丈夫だった。
戦争中から敵機を見つけるのは非常に重要な事だったので、今でも若いものよりも視界に入る機体を見つけるのは早い。
横に首を振る様に見るのではなく、或る程度視界を20~30度に区切ってみると、見落としが無い、区切って縦に上下に見る。

戦争中はコンパス1個で何時間も飛んで、中には帰ってこない飛行機がありますが、今はGPS等があり、今どこにいて、後何分で着くとか非常に楽ですが、器材が故障して使えなくなっても、私は戦争中何もなくても帰ってこられたので、それが役に立ちます。(2段構えのカバーを自分で持っている)
飛行機の教官は難しいと言えば難しいが、軍隊、自衛隊の教官だったら全部マニュアルがあるので、飛行適性が無いと落とされる。
民間のクラブであると、お金を払ってくるので、器用不器用はあるが、なんとか免除を取ってもらうかが大変。  
戦争中、戦闘機乗りは操縦が荒いが、私などが操縦する大型機は荒くはない。
訓練では結構疲れるので、1時間以上は教えない。  
ほんの2つ、3つ勘所を教えるが、褒めてやることが大事、空を楽しんでもらう事が大事。

難しいのは着陸、滑走路が短いところを機体に荷物、燃料一杯積んで離陸するのも難しい。
飛行機は正面から風を受けるのが一番楽で、右から風が吹くと風に流されない様に修正しながら滑走路に降りないといけない。
今は風の方向はコントロールタワーから指示があるが、昔は吹き流しをみて、方向を確認して後は勘でやってた。
赤十字飛行隊長  飛行連盟の名誉会長をやっている。
営利団体じゃないので、何か役に立つ事をしようではないかと言う事で、当時警察も消防隊もヘリコプターを持っていない時代だったので、日本赤十字本社と話をして、災害が有った時に飛行連盟の飛行機で災害地に無償でボランティアで医療品、医者、看護師などをとどける組織を作ろうと思った。
昭和38年に作った。  
パイロットは10数人で組織して、初代隊長が昔のゼロ戦の司令官だった源田実さんだった。
昭和39年新潟で大地震があり、それが第1回の出動だった。
石油タンクの燃えるのが見えた。  飛行場の上に行ったら滑走路がまっすぐなはずが液状化現象を起こして蛇の様になっていたが、真中にちょっとまっすぐなところがありそこに降りた。
毎日のように必要品の運搬をやっていた。

東北水害、秋田沖地震、大島の元町だとか、色々あったので活躍の場があった。
全国各地の飛行場に自家用飛行機を持っている方がいるので、組織に入ってもらって、災害発生時にボランティアで参加してもらう様に動いて、今は全国で38有ります。
この頃は自衛隊のヘリ、防災ヘリなどが出来たので、なかなか表だった出番が少なくなった。
臓器移植などで活躍したことがある。
災害時には滑走路が無くても、着陸できるヘリコプターが一番役に立つ。
プロパイロットは、仕事をしてお客さんからお金を頂きます、頂いた上にあーいい仕事ができたとか、今日はいいフライトができて有難うとお礼を言われるようでないとプロではないと思っている。

先頭を切って私はやらない様にしている。  人を育てないといけないので、今は他の教官にやってもらって、休憩している間にやる様にしている。
若い人たちとは先の読みが違うと思う。  それは経験、天気予報はあるが、その土地その土地の天気があるので、もうじき風が強くなりそうだなと感じて止めた方がいいなと、早く判断します。
教本にはスタンダードなことは書いてあるが、その時の状況は多少違うので、修正の仕方が経験を積んでいると、早め早めに安全に出来る。
おとなしく操縦する事が一番いい。(乗り心地をいつも考えています)
聞いてこないような教官は伸びが無い。(日常の雑談の中から聞いてくることが大事)

自衛隊に講演に行くが、自衛隊の教官も戦争経験者はいないので、戦争中どんな精神状態だったとか、昔は叩かれて精神教育したかとか、そうした事は自衛隊の教官はそのようなことは言えないので、私の方で話をする。
何百回と飛んでいるが、満足したフライトは年に1回か2回でしょう。
名人、ベテラン等はない、ただ時間を余計に乗っているだけです。
今レジャーで飛んでますが、レジャーで命を落とすのは最低だと思います。
レジャーで天気が悪そうになると、今日はもうこれで止めようと、私が早めに止めようと言えば止めます。
海を沖の方を見ていて、沖に白波が立ってくると、風が段々こっちに来ると判るので、早めに辞めさせる。

鳥をまねるが鳥には成れない、鳥は墜落しないから。
日々向上を目指す、自分が向上していると思えば、それでいいと思う。
周りに心配をかけない様にいろいろ考え、やっている。
このベテランがなんでこんな事故を起こすのだろうと、思う様な事があるが、人身事故になっているが、過信している、慣れでなく狎れになっている。
何でも慣れてきた時が、ミスを起こすと思う。