白石征(劇作家) 地方に演劇の水脈を求めて
白石さんは大学1年の時に、シナリオ教室に講師としてやってきた、新進作家の寺山修司と知り合いまして、卒業後、寺山が47歳で亡くなる迄の18年間、出版社で100冊を越える寺山作品を世に送り出しました。
寺山の死後、50歳で劇作家、演出家として東京でスタートした白石さんは、東京での公演に疑問を持つようになり、53歳の時に、東京から神奈川県の藤沢市に転居、藤沢市で地方文化の原点の一つと言われる、時宗の開祖一遍上人の踊り念仏と出会いまして、更に乱に敗れ逃げる途中、毒を盛られた小栗判官が照手姫に助けられると言う語り芸のルーツとされる説経節と出会います。
この20年間一遍上人が開いた遊行寺の本堂で遊行歌舞伎として、公演してきました。
劇作家74歳の白石さんにお聞きしました。
遊行歌舞伎を立ち上げたきっかけは?
1990年ころ、藤沢に住むようになって、新しい現場に立ちたいと思って、若い人達、主婦達と藤沢演劇クラブを立ち上げて、探索中に湯行寺に行きまして、そのお寺で小栗判官の墓を見つけまして、偶然小栗判官の物語と出会って、そこから構想が湧いてきたわけです。
小栗判官の事を調べてみると小栗判官の作った元のお話が、中世の説経節の物語だった。
説経節は、当時劇場がなかったので、旅をする人達が語って行った、語りの物語なんです。
その中に小栗判官のものがあった。
演劇にできないかと考えていった。
映画の監督志望で有ったが、寺山修司と知り合いまして、出版社に入って編集者だった。
寺山さんが亡くなってから、ものを作る現場にいたいとの思いがあってやってきて、50歳で区切りをつけて出版社を辞めて、藤沢に来たわけです。
基本的には戦前の時代劇、歌舞伎が好きだったものですから、そういうものを何とか現代によみがえらせたいと思っていた。
「雪之丞変化」(仇打ちもの)を作りなおして、現代のドラマにしようと最初にやってみた。
「暗殺オペラ」を連想しながら作った。
死んだお父さんが仇討の瞬間に蘇る。
死者は必ずしも形としては現世では眼に見えないが、心の中には残っていて、記憶の中に残っていて、交流し合うというか、共有し合うと言う事が現世の生きている私たちの生活を豊かにする、力付けると言う風に思っているので、死者を別世界のものと言うか、死んだらおしまいというのではなく、演劇と言うものは死者と言うものを、共有する世界を作りたいと言う事です。
寺山修司 恐山を舞台にした芝居
恐山にイタコと言う人がいて、死者を呼び起こして、イタコが介在して生きている人たちと交流する。
当時若者文化で、お金が無くても作りたいことを作るんだと言う事で、その為には役者だけやっているわけではなくて裏方から全部やっていた。
寺山修司からの影響は大きかった。
寺山修司は、演劇はそこで立ち現れてくるものだと、劇場があるから芝居があるのではなくて、芝居があるところだと、どこでも劇場になると言うのが寺山修司の考え方だった。
既成秩序の権力に対して、とっても批判的だった。
当時の主流の考え方に対しても批判的だった。
呪術的、土着的なものの中にこそ、人間の生きるいろんな神秘もあるし、死者の再生もあるのではないか、と言う事です。
「地方でこそ独自の文化を育てられる」 寺山修司の言葉
「それぞれの根を掘れ」と言う事だと思います。
自分の立っている足の下の土を掘れというか、そこに何か文化の大事なものがあるので、それぞれの生きてきたルーツを掘れと言う事だと思います。
一遍上人 生まれた処が今治、私が子供時代に遊んだ桜井海浜があるが、一遍上人が旅に出る貴重な場所だった。
一遍上人を研究して、一遍聖絵(国宝的な絵巻)があるが、それも遊行歌舞伎として脚本を書いてやった。
一遍をやってゆくと、寺山修司がとっても近づいてきた。
地方の文化を再創造してゆくためには、地域の持っている文化の根っこ、核になる様なものを掘りだしていかないといけない。
鎌倉は武士の都で、義経が鎌倉に入ろうとして、腰越で足止めされて入れてもらえなくなった。
義経が平泉で殺されて、首実験で鎌倉、腰越に戻ってくるが、それを祭ったのが藤沢の白旗神社。
義経は鎌倉に入れなかった。 一遍上人も巨福呂坂でとめられて鎌倉に入れなかった。
弱者、敗者、はみ出された人たちをとっても優しく、地域の人たちが支えて、食べものを与えたり、弔いをしたりしたんだと思います。
一遍上人ゆかりの遊行寺ができて時宗と言う文化が流れ込んできて、藤沢の地域の文化が混じり合って出来たものが、一番誇れる文化ではなかと云う気がした。
一遍上人は踊り念仏を唱えながら、全国を廻った。
踊り念仏は一種の先駆的な行事だったと思う。
布教のために演じてもいたのだと思うが、一遍上人は集団の旅暮らしで、お寺を持たない人で、女性もいたので、自分達も宗教的な気持ちで踊っていたと言う事もあるが、半分は芸能的な形にもなっている。
藤沢の片瀬で舞台を作って踊り念仏を踊って見せたのが、初めての試みだった。
盆踊りも全国に波及した。
説経節 書物ではない、語りの物語。
戦国末期から江戸時代に本になるがそれまでは語り継がれてきたもの。
坊さんが話を持って全国を廻ったので、説経節。
宗教的なもの、民俗的な物語、歴史的な物語が混じり合っているんですが、単に話すのではなく聞いている人たちと語る人がやりながら、作りだしていった、ドンドン変わっていった。
日本人の喜怒哀楽、エッセンスが入っている。
小栗判官 一度殺されるが閻魔大王のはからいによって、しゃばに戻ってくる。
妻である照手姫が熊野の温泉に浸けると再生する、と言う話
それを元に、妻の介護にポイントに於いて、夫はもう死んでしまっているので、困っている病人がいたら、手助けする事が、死んでしまった夫への供養になると思って、尽くすが実はそれは夫そのものだったと言う事ですが、愛情と言うものは諦めない愛で尽くす事によって報われる。
遊行歌舞伎 遊行は一遍上人の旅のことをいうが、寺山修司 旅の詩集とか人生は旅だとか言って、共通項がある。
旅は家を持たない、財産を持たない。
出家を、字を逆にしたら家出になると寺山修司は対談で言っていた。
歌舞伎は「かぶく」から出ているらしい。
「かぶく」は半身に構えると言うか、気をてらいながらひっくり返してゆく。
遊行歌舞伎は小屋を持たない人の旅の芝居。
出し物 「山椒大夫」 説経節のエッセンス ほとんど不可能な再会ですが、再会と言うものがどれだけ人間の幸せな至福の時間で有るかと言う事を描いていると思うが、説経節的世界だと思う。
人間の幸福と言うものは、家族を中心にした幸福の考え方があって、家族がなくても他人同士でも信頼のもちかたが大事だと思う。
そういう愛情のあり方を説経節から今に、取り入れてみたいと思っている。
死んでしまったらおしまいだと言う、現世だけの幸福だと思っている物質的幸福感とは違って、或いは科学文明があまりにも進み過ぎていると言うか、そうではない人間の民衆の中にある安心感とか、そういうものをもう一回見直してゆくと言うか。
眼に見えるものだけが世界ではない、眼に見えないもの、死者、創造力、見えないものも自分たちの文化なんだという、そういったものと共生して生きてゆく事が大事。
一遍上人 白木の念仏、真っ白な、純真な気持ちで一心にと言うのが理想だ、というが、 芝居でも手なれた役者でなくて、素人でもいいんだと言う事で一緒にやる。
役者、作り手だけの芝居ではなく、見る人も一緒になって、作ってゆく世界、環境。
演劇というよりも一種のお祭りの形態、市民と一緒に作る人間が巻き起こす渦の様なものを連想している。
遊行寺の境内で1年も休むこと無く続けられた。
演目 5大説経節 中世の太平記三部作 等全部で7本ぐらい。
説経節、踊り念仏 古いイメージはあるが、文化と言うもんはそんなに古い新しいと言う事はないと思う、普遍的なものを掘り起こして、若い人達にも、もっと日本の文化に再遭遇するときに、もっと注目してもらいたい。
常に出発点に立ってものを作っていかなくてはいけないと思う。