2014年9月11日木曜日

日下 潔(医師)         ・被災地に新しい在宅医療を

日下 潔(医師)       被災地に新しい在宅医療を
宮城県の出身 67歳 東北大学医学部を卒業した後、石巻赤十字病院等で緩和医療の専門医として、治療の第一線に立って、来ました。
3年半前の大震災の際、日下さんは石巻赤十字病院で運び込まれる人達の、死と向き合いました。
その日下さんが石巻の在宅医療のクリニックの院長になって、半年になります。
被災地で日下さんたちが繰り広げている新しい在宅医療とは、どのようなものなのか、その目指すものはなにか、日下さんが医師として辿ってきた道を交えながら伺います。

石巻赤十字病院は主に癌の方を見ていましたが、今はクリニックに勤務するようになって、癌以外の方も多く見るようになっています。
ほぼ毎日の様に仮設住宅の患者さんを見ると言うのがこれまでと違う点です。
石巻は広い市なので、色々なところに仮設住宅があり、不便なところにも仮設住宅があり、交通手段がないし、車を運転できないと云う人もいて、在宅医療は欠かせない医療サービスになってるかと思います。

医者になろうとした訳
私の家は代々、医師の家系で、父の姿を見て育ったので、大学進学の時に選択しなくてはいけなくて、迷ったが医師の道を選んだ。
医学の講義を受けている時に、ペインクリニックの講義を受けて、これは素晴らしい分野かなと、ペインクリニックを志す様になった。
ペインクリニックは麻酔科の分野にあるが、麻酔は手術の時に痛みを感じさせなくするというのが麻酔の仕事で、全身麻酔、局所麻酔がある。
麻酔科に入ることにした。
大学病院に務めているころは麻酔とペインクリニックをやっていました。

2006年から石巻赤十字病院に行く。
平成18年に石巻赤十字病院が新しくなって、緩和医療分野もたちあげるという話を聞いて、私が行ってお手伝いできるかなと言う事で、平成18年に移ることになる。
主治医になって癌で苦しむ患者さんをいれて症状を和らげるという事を目指したが、国の方針も一般病院でも緩和チームを作って、癌の患者さんを見ていく様な方向性の変換があった。
癌対策基本法も作られた時だったので、自分が主治医になるよりは、他の科の患者さんを他職種で一緒に見てゆくように方向転換して、チームの仕事を多くという様にしていった。
緩和ケアーチームそのものがまだどこの病院でも新しい時代だった。
宮城県では東北大学病院、県立ガンセンター、仙台医療センターで緩和ケアーチームが見るよりも、もっとも多い患者さんを石巻赤十字病医が見ていたという実績は、早い時期から専従できたことが、大きいと思います。
本当の緩和ケアーの専従医としては、宮城県では私が初めてという事になります。

3月11日 揺れた瞬間は最後の患者さんを見ている最中だった。
自家発電で直ぐには電気は点いたが、6階に行って様子を見ていたら、特別医療体制のアナウンスがあって、プロエリアに行って準備をすることにした。
津波はTVで名取市に押し寄せていることを知る。 石巻市にも津波が来ることを実感する。
直ぐに怪我人が運び込まれると思っていたが、全然人が来なくて、どうしたものかと思ったが、後で考えると津波で来る手段がなかった。
夜から翌朝にかけておおくの患者さんが運び込まれて、病院は一変した。
停電でうちの病院だけが明るかった。
全国から医療チームが来てくれた。
運ばれてくる人の状況に応じて色分けをして、判断するという体制を取った。(マニュアルにもあるし、前年大がかりな訓練があってそういう作業をした。)

①直ぐに治療しなくてはいけない患者は赤 
②少しは待ってもらえるのかなと言う患者は黄色
③軽傷で歩ける人は緑
④すでに亡くなっているか、まだかすかに息をしているが、その人を全力で治療すると、治療すれ  ば助かるだろうと思われる他の人を10人見殺しにするという重症の患者さんは黒 
 黒で私のところに来た人は全員亡くなっていた。
病院は生きている患者さんを治療するところですが、亡くなった方がドンドン連れてこられた。
町全体が水につかっているので、遺体安置所にたどり着けないので、病院に連れてきたと言うのが答えだった。
黒エリアで担当したのは約220名、震災だけでなく病気で亡くなった方もいる。
普段の医療の延長として捉えて動いていた様に思う。
住民の方も配属されて手伝ってくれていたが、精神的動揺があったようだ。

その後じわじわと考えて、普段から亡くなってゆく人に接しているのと、災害時の仕事と言うのは違うんだなと言う事は大分経ってから、少しずつ感じるようになって、事務的に扱っていたので反省している。
そのことが段々深くのしかかる様になる。
今年4月在宅医療のクリニックの院長に就任する。
癌の患者さんは最後は自宅で過ごせるという強い考えがありました。
石巻の医療事情に関しては、震災前の患者さんが石巻赤十字病院に集中するという事は有りましたが、石巻市立病院が壊滅的ダメージを受けて患者さんが受けられなくなって、さらに石巻赤十字病院の仕事が増えた。
癌の患者さんも出来るだけ病院外で見ていかなくてはいけない事になり、震災に関係なく在宅で患者さんを見ていかないと、癌難民が増えるのではないかと、自分としては出来るだけ病院以外で見るという仕事をする、それが将来的の自分のためにもなるかと思って、模索を始めた。

祐ホームクリニックの武藤理事長から誘いをうけたが、自分で在宅開業をする気持ちはなかったので、即答はできなかった。
後からお世話になろうと、決断した。
うちのクリニックでは役目の分担がはっきりしていて、どこをどう周るかを担当の事務の人が決める。
採血なども含め、同様に分担して、効率よく行う様にする。
廻る時も、看護師、アシスタント 3名で一緒に廻る体制。
1日に12~20名近くまで廻る。
仮設住宅にも行くだろうとは想像していたが、診療のある日は毎日のように行きます。
お年寄りが仮設に残っていて、若い人は仕事を見つけて仕事の関係で仮設住宅を離れる。
厳しさは更に強くなってゆくと思う。
出口は見えないが、どのような状況になるか、高齢、経済的に恵まれない方は、どういう事で仮設住宅から移っていけるのか、そこがよく見えない。
医療だけでなく介護との連携が必要になってくると思います。

在宅医療は益々ニーズは多くなると思います。
地域の医療・介護の連携は益々重要になってゆくと思います。
市にも連携の委員会があり、医師会、行政の方たちとの話し合いがでてくると思います。
いろんな面での連携が、今後出来てゆくのではないかと思います
電子カルテの連携、他のクリニック、他の介護施設、ほかの業種とも一緒に情報を共有できるシステムを作っているので、それを大いに利用できればいいのかなと考えています。
これまでの医師人生を振り返ってみると、流され流され、と言う風な生き方をして来たように思います。