2014年9月24日水曜日

柿沼康二(書家)         ・書も生き方も俺流で

柿沼康二(書家)     書も生き方も俺流で
44歳 金髪でひげと言う書家らしからぬ姿で、迫力ある文字を書く事で知られる柿沼さんは、お父様の書家、柿沼翠流さんの指導で5歳から筆を持ち、若い時から毎日書道展や独立書展などで多くの賞を受賞しています。
東京学芸大学教育学部芸術科を卒業、2007年にはNHK大河ドラマ「風林火山」の題字を書くほか、2012年にはNHKの趣味道楽で講師として出演しました。
王 羲之や空海などの古典を模写する事を臨書と言いますが、この臨書がとても大事だと言います。
柿沼さんは吸って吐いて自由な書をモットーとしています。
これは自分の眼と心で古典から書の美を吸収し、純粋な気持ちで自分の書を吐き出すという事です。
いつも新しい表現をして、独自のスタイルを築きあげている柿沼さん、書を現代アート迄昇華させたと国内外で高い評価を得ています。

生活全般が書と言う表現に結びついているので、筆を持っていなくても、作品や作品の一部だと思っているので、自分の字を自分の表現を良くするために、筆を持つ以外の仕事もやっているというところがあります。
金髪姿、最も誤解される書家かもしれない。
海外でパフォーマンスをやってほしいと言われた時に、日本ブームがはやり始めたときで、和服に髪型も金髪にしたが、受けた。
固定概念を崩すヒントになった。
「風林火山」 うまく料理出来たら伝説になると思ったが、出来なかったら笑い物になると思った。
36歳の時だった。

映画の題字も多かったが、NHKの趣味道楽、今までの書道講座とは雰囲気が違うものだった。
最初は字を書く行為、字を書く行為の中から、自分の心を入れてゆく。
書の世界に絶対不可欠なのは、臨書、弘法大師、王 羲之等の書き残した歴史的に残されてきたものをテキストとして模写する作業が凄く大切で、わたしは1日で5時間から10時間やったりする。
臨書をやって、そこで勉強したものがもろに、作品に出てきてしまう。
臨書をやったことの無い人の書いた字は型なしの字になってしまう。
書は型がある。  型なしと型破りは違う。
字は怖い、アルファベットと違って、漢字一つ一つに魂がある、神様がいるんですよ。
「風林火山」題字は何百枚も書いた。 
風林火山の概念とは何ぞやと考えながら、筆を紙に叩きこんでいった。

昭和45年生まれ、44歳 栃木県矢板市生まれ 父が書家。
3兄弟の末っ子 上二人の方が全然巧かったが、辞めてしまった。
中学校3年で新聞社の県内での特賞(No1)を取った。 (小学校から高校生が対象だった。)
父親が「生きる」と言う字をほうき見たいな30cmの毛の長さで、汗だくで書いていて、なんで字を書くのに父はこんなに叫びながら書いているんだろうと、思っていた。
字、書 は一般の方は形ありきになっていると思うが、父親譲りだとは思うんですが、動きが形を作りだすという事に私はおもしろさを感じた。
ダンスのような動きで、書いていって、軌跡が残っている、残った軌跡が作品。
父親譲りでアートとしての書をやっていた。
形を追うと動きが甘くなる、動きを追うと形が甘くなるが、ほとんどの方が形でしょうね、結果を見ちゃう、私は動きなんです。

こうやるんだと気持ちがピュアであるほど、やりがいがある。
結果が違うところに辿りついてしまっても、美しいと思う。(心を打ってくる)
形を主にした字は私の中では失敗作です。 自分の思いが入りきれていない。
それは何かに左右されている、自分以外のもの、お金、人目、評価なのか。
東京学芸大学教育学部芸術科に入学 書道の専門家を育ててゆく所、皆さん上手でした。
16歳の時に手島右卿 昭和の3筆の一人で、半年間だけ師事する事が出来た。(亡くなってしまう)   ずっと弟子を取っていなくて最後の弟子だった。
父が手紙を書いて、会ってもらえうように段取りをして、会う事が出来た。
1時間の稽古の間に、ずーっと冷や汗が止まらないぐらい、緊張した。
次から何か書いて持って来いと言われて、弟子入りが許されたようだった。
そのころもぐれていて、心配した父が動いてくれたようだった。
本物に合わせた瞬間に私は驚いたし、見えない「気」見たいものが出ていて、それが私にとっては事件でした。
やばい、適当に書道はできないと、そこからスイッチが入った。
父は男が仕事をやるなら、日本一になれるような仕事をしなさいと、言っていたので、書ならばいけるのではないかなあと思って、大学もそっちを狙おうと行きました。
父親には感謝です。
上松一條先生 臨書の虫と言われたたぐらいに、手島先生よりも上松先生の方がやっていたのではないかと思う。
手島先生は天才、上松先生は努力の人、上松先生に16年間徹底的に臨書の勉強法を叩きこまれた。
創作を持って行ったら怒られた。  古典の勉強していないのは書家ではないと。

大学4年間も上松先生の稽古に行くのが主で学校はさぼっていた。(学校に行く時間が無かった)
1日15時間ぐらい書いていた。
20歳で独立書展で特選、毎日展でも入選、毎日賞を25歳で取る。
受賞したころには、表現したい作品ではないと気付いた、賞を頂く様な作品は本当のアートではないと思いました。 賞取りレースに合わせた作品。
25人いる審査員に出来るだけ手を挙げてもらわないと賞は取れないので、自分の表現したい物を100%やったら絶対手が上がらない。
60~70%での方向を見いだしたら、ぴったりあった。
自分がやっているのは芸術ではないと思った。 
このままやっていれば書道界では出世するとは思ったが、芸術は置き去りになるので、このままではいけないと思って海外に行った。

ニューヨークにはアートに関する秘密が何かあるだろうと思って、ニューヨークに行った。
失敗か成功かと言われたら失敗でしょうね。
なにか個展をやって帰りたかった。
個展をやろうとしていろいろトラブルがあり、個展も開催できず、お金でも苦労したし、言葉でも苦労してアパートに引きこもりになってしまった。
最後になんとか展示会をやって帰ってきた。(当時はもうぼろぼろになって帰ってきたという感じ)
それがあっていまだに続く海外の展開にもつながっている。

地元の母校で先生をする。
書道=古臭い を払しょくしたかった。
NHKが,ユニークな先生がいるという事で、45分のドキュメント番組をする。
学校に朝から晩まで電話がかかってきて、迷惑になると思って学校をやめた。
アートではどんな事をやってもつかまらないから、紙の中で暴れろ(頭を使って、想像して字をモチーフにして自分らしいものを表現する)と言った。
1時間目は臨書をやらせる。(吸収する) 2時間目はお手本が無くて、1時間目に勉強したことを言葉、漢字に書く。 (吐き出す)
日常生活から色々なものを吸収して、見たり、栄養を取って、それを使って話したり、動いているので、バランスが崩れると良くない、病気になっちゃう。
楽しんで吸いこまないといけない、栄養にならない。
弘法大師の「はね」の部分を一つの画として書いてるんだ、弘法大師ははねないと、はねない表現をする。  子供達にそういった書道の面白さを伝える。

弘法大師は筆使いは360度使って書くが、筆の一面しか使わない。
弘法大師は自由自在に手首を動かして書いていたよ、と言う風にいうと子供達は楽しんでやる。
筆を一番理想的に動かせるのは、右45度に傾けるところから、ひらがなができてきたので、360度使って書くという事は衝撃的だったかもしれない。
アートとして成立する書を極めてゆくしかないと思う、
管理の行き届いた美術館に作品を預かってもらって、自分の作品が何百年後まで残せるのか、きっと忘れられたくない、そういった作品を作っていきたい。