宮城まり子(ねむの木学園園長) 私の子供達,共に生きる日々
1950年、昭和25年になやましブギでデビュー、昭和30年、「ガード下の靴磨き」で大ヒットします。
その後も数々のヒット曲を歌う一方で菊田一夫の演出の舞台やミュージカルに欠かせない女優と成りましたが、突然芸能界から姿を消して、昭和43年、静岡県浜岡町に、日本で初めての肢体養護施設のねむの木学園を設立し、福祉の世界に身を投じました。
生涯のパートナーとして作家吉行 淳之介さんが亡くなるまで、彼を愛し続けた宮城さんは浜岡町から移転した静岡県の掛川市のねむの木村に吉行淳之介文学館を作り訪れる人に見てもらっています。
ねむの木学園設立から45年、子供達の描いた絵画や、5人の子供達の歌の才能を見事に引きだしてコンサートを開くなど、86歳の宮城さんは休む間もありません。
足が駄目で車椅子に乗っている。
母は眼の下にほくろがあり、弟にも同じ場所とにほくろがあり、拾われえてきた来たのではないかと悩んだが、母はこのほくろは涙ほくろで、悲しいことが多いので、その代わりあなたにはえくぼ付けてあげたと言って、えくぼに喜びを持たせてくれた。
母は最高の人、優しくて、厳しくて、母は結核でずーっと病気で私が12歳の時に亡くなりました。
私は絵が好きだった。 母もベッドの上で描いていた。
(母は絵が上手かったのでどうして自分は下手なのかを聞いたところ)
人が上手だとか、へたとか言ってはいけない、貴方は貴方の絵を描きなさい、私は私の絵を描くので、それでいいんですと、言われた。
それからは思った通りの描く様になった。
手の長い絵をかいたら、先生から見た通りにかく様に言われて、母親とは違う事を言うので、先生が嫌いになり、絵を描く事も嫌いになり、絵が好きで絵描きになりたいと思ったが、絵を辞めました。
父と弟と3人で東京から大阪に父の仕事の関係で行った。
15歳ごろから一人で生きていかなければと思うようになった。
「しかられて」を舞台で歌った。 (1週間だけだったが)
東京の浅草に戻ってくる。 又「しかられて」が始まりだった。 寄席で歌っていた。
其時に菊田一夫さんが益田喜頓さんと一緒に来てくれて、日劇に出ないかと言われて直ぐにハイと返答する。(21歳の時)
大階段を駆け下りてきて歌うのでやったことが無く、怖くて早く行って練習をしてこなす様にした。
「お母ちゃんの手」を作って歌った。
日劇に出ていて、有楽町の階段を落ちて、恥ずかしい気持ちとだれか見ていないかと見回したら、大人達が靴磨きをしていて、そこに一人子供が靴磨きをしていた。
大人の中で子供がやっていることを許せないと思ってしまった。
あの子の事をちゃんとしなければ許せないと思ってしまった。
それが生きてゆくことの困難な人の理解する、気持ちを持ってゆく初めだった。
しかし何もできない状態がずーっとあって、「ガード下の靴磨きに」の詩に出会った。
昭和30年に歌う。 紅白歌合戦に出場して歌う事になる。
私は恥ずかしがりやです。(今でも)
後ろからぽんと押してもらわないと出れれない。
「ガード下の靴磨きに」がヒットしたら、同じよいうなものをやるのは駄目で、新しい物をチャレンジしたかった。
舞台、ミュージカルを沢山やるようになった。 難しかったが、楽しかった。
ニューヨークで新しいもののミュージカルが上演されるとそれを良く見に行った。
菊田一夫 「何もしないで出世する方法」ミュージカル
全部泥棒の話 島に宝物があるという事で、その島の12歳の少女役をやる。
余り考えることの無い子の役で、脳性麻痺の病院に勉強に行くがここでもショックを受ける。
それが深くなっていった。 この子達をこういう勉強のさせ方をしていいのだろうかと、思った。
もっと自由に自由にやらなければいけないのではないかと思った。
アテトーゼ の役を菊田一雄先生からやるように言われたが、その役は断った。
辞めちまえと言われてワンワン泣いていた。
先生の付き添いの女性から「先生もまりちゃんとおんなじ気持ちよ」といわれて、先生がそのあと来て「明日楽しみにしているよ」と言って、本当はしかったのは優しい心で叱ったのだと思って、自分の思い通りに演じた。
「ねむの木」の仕事をさせてくださるようなきっかけを作ってくださったのも、もしかすると菊田先生かもしれない。
「ねむの木」の仕事については吉行さんには、人の事をお世話しようなんて、思いあがったことをしてもいいなんて、なんてなかなか言えなかった。
身体が悪くて、お金がなくて、病気が治らない子のお手伝いをしていいか、言ったが「思いあがるなよ」と言われて、それから10年して又云った。
「ガード下の靴磨きを」一回やった時の言って、又10年してから言った。
君は10年前から言ってるね。といって
条件は①お金がないと言わないこと ②愚痴をこぼさないこと、③辞めないこと その約束を守れるのならやってもいいでしょうと言われた。
私を辛い目に合わせたくないから、彼は反対していたと思う。
「こんなに良いこと、楽しいことを経験する事はないよ」と彼に言っている。
この頃は言わない、そう言う暇はない。
展覧会をやっているが、絶対見てくれていると思う。