冷泉貴実子(公益財団法人・冷泉家時雨亭) 歌を守り文化を伝えて800年
藤原定家を排出してきました。
蔵の中には国宝5件を始め重要文化財47件がおさめられて、歌会など様々な行事と共にうけつがれてきました。
その冷泉家の第24代当主の長女で、今の第25代当主の為人さんの妻が冷泉貴実子さん66歳です。
冷泉貴実子さんは和歌の文化と公家の暮らしを紹介し、合わせて文化財保護の理解を深めようと、公益財団法人冷泉家時雨亭文庫事務局長として活動しています。
冷泉はどの様にして歌を守り文化を伝えてきたのかお聞きしました。
冷泉家は完全な姿で現存する唯一の公家屋敷として、国の重要文化財に指定されています。
建物の特徴は200年前の建物、当時の公家としては中ぐらいの家とされている。
歌会をするのにふさわしい様に建てられた家と言われている。
簡素に、ちょっと気品のある建物。
門からは中が見えない様に、「立て蔀」と言われて目隠しの様になっている。
「立て蔀」(たてじとみ)は源氏物語などには絵が残っている。
屋根はこけらぶきで こけらはさわらの木を薄く切った木片を重ね合わせて曲線をだしている。
蔵が5つあり、重要なお文庫という蔵がある。
普通に屋根の様に建物についていない屋根になっている置き屋根作りになっている。。
土壁の厚さが30cmあって、壁土が用意されていて、いざとなると、屋根を取り外して、隙間を目張りをして完全な防火建物になって天明の大火の時にも焼け残った。
お文庫の1階は国宝、重要文化財、典籍、古文書とかを入れている。
2階は神様を祭っている神殿になっている。
和歌の神様とか先祖の神様をお祭りしているが、滅多には入らない。
正月などには門松とかをその蔵にしかしない。 蔵を拝むことが初詣にしている。
歴代の人が皆神様になる。
子供の時からお文庫に近ずくとばちが当たるといわれていた。
俊成、定家は神様だと思っていて、藤原俊成、定家だと判ったのは、ずーっと後で歴史上の人物だと判ったのは小学校の高学年になってからです。
お文庫には点数は千点以上ある。
古今和歌集、後撰和歌集 は藤原定家が写したもの。
明月記 藤原定家が生涯にわたって書いた日記。
古来風体抄、藤原俊成が書き残した歌論書。
拾遺愚草、藤原定家の私家集。
この5件が国宝に指定されている。
47件の重要文化財は、主になるのは 平安時代の詩歌集の纏めたものとカ、鎌倉時代の詩歌集の纏めたものとか、そのほかいろいろある。
俊成、定家は勅撰集、天皇とか院の命令で和歌集が編まれていた時代で、勅撰集の撰者になっていた。 凄く栄誉のあるものだった。
古今集が一番初めで、室町時代までに21にわたって編まれたもので、一度歌ったものは次からは取り入れることはできないという事で、すごく勉強していた。
編集のための材料 私家集 当時は皆自分で写すか、誰かに写させるかしかなかった。
藤原定家は何冊か本を借りてきて、写し間違いあがあるのでどれが原典に一番近いものなのか正しいのかをを研究したしたのが、子の人の一番の功績だと思います。
日本の古典学者の元みたいな人ですね。
勅撰集を編集するためにそれまで日本にあった古典籍を写した。
公家、貴族たちの仕事の一つだと思うが現在ににこっていない。
一番原典は宮中にはない。
写した本は藤原定家に最終的には行きつく。
大方の日本の古典籍は藤原定家が書き写したから残った。
源氏物語にしても、藤原定家が書いたものが原本になっている。
残ったものは冷泉家にあるものが日本の古典籍の源になったものが非常に多いのでお文庫は大変重要なものです。
800年以上守ってきた。
明治維新以降の歴史で日本の中ではいろいろなことが無くなってきてしまった。
勅布に依ってお文庫を勝手に開けてはならないという命令が出た時代もあった。
戦後古いものに価値を見出さなかったことがあって、外国に出て行った。
そういう時代に守ってきたことが大変だった。
家一つにしても税金対策に追われていて、重要文化財に指定されて、褒めて頂ける要素があるが、60数年前にはだれも価値を見出してはくれなかったし、税金を払えなかったら売ってしまったらどうかと言う風なことが国の指導だった。
両親は凄い苦労をしてしまったようだ。
お文庫が残ったのはばちが当たるという様な事を言われていたので残った様なもの。
価値がないと言われる時代に守るのが難しい。
大火、政変があったが、明治維新の戦乱は所領の人達が走ってきて、箱に収められていて、箱ごと疎開させる。
主人だけが守ったのではなくて、所領の人達とが一体になって守ってきた。
大天才は俊成、定家以外はいなかった。
藤原定家が、日記に高貴政治は我がことにあらずと記載している。 文学の道を目指す。
天才は新しい物を作るが、古い物を破壊した。
変な人もいなかったし、凄い人もいんかあった、きちっとした人が守り続けた文化だと思う。
全国に門人がいて全国との交流を通じてちゃんとした情報を得ていた。
分析をちゃんとしていたというのが良識ある人々かと思います。
明治維新の政変にしても家のものを守ることを主眼にして、そのものを疎開させることを熱心にしていた。(情報は素早く察知していた)
1月1日にはお文庫にお参りに行く、それが初詣。 2日には書き初め。 歌の読み初めでもある。
三が日は雑煮、お説量ろを頂く。 7草
歌会始め 沢山の門人が集まっていただいて歌会をやる。
7月7日の歌会も有名になった。
歌い方 ひこう 和歌だから歌うもの 今でもやっている。
皇居での歌会始めとは違う。 宮中で今行われているのは現代短歌。
現代短歌は明治維新になって文明開花と共に入ってきた芸術という考え方に位置する。
会の主題の中で 例えば「初春」の中でおんなじ気持ちを祝うというのが和歌です。
冷泉家は目に見えないものも守っている。 和の文化の物なのかもしれない。
11月1日 「古典の日」 呼びかけ人の一人 伝統文化を守ると言う事は。
この国の長い伝統文化を守ることは、この国の存在理由かと思う。
それがあるからこの国なんでしょうね。
1000年前の歌が今すぐ理解できる言葉が続いている国は世界にほとんどない。
民族衣装が日常的に、よそいきにしても着ている国はほとんどない。
祭りにしても、日本中に一杯ある、この様に祭りが続いてきている国は無い。
片一方では伝統の文化を守ってこそこの国の存在の意味があると思う。
「もえいずる 緑の草に いななきて 初春いわう 野辺の若駒」 冷泉貴実子さんの歌