2014年1月20日月曜日

岡野弘彦(歌人)          ・三十一文字(ミソヒトモジ)にいのちを吹き込む(2)

岡野弘彦(歌人)     三十一文字(ミソヒトモジ)にいのちを吹き込む(2)
出身は三重県 雲出川の一番上流のところにある神社の生れ、大和に通ずる道がある。
室生寺、長谷寺、飛鳥 大和の古い中心地につながっている道すじです。
伊勢、大和、伊賀のはざま   
北畠家の旧領土、織田に滅ぼされたのち、藤堂家がそこを統治する。
そこで神主をしていたのが、私に家の祖先です。
5歳のころから、元日には父が森の中のお社で元日のお祭りをするわけです。
私は新しいひのきの桶を持って、祖父に連れられて川に行って、「今朝汲む水は、福汲む、水汲む、宝汲む、命永くの水を汲むかな」と上流に向かって唱えて、若水を汲む。

百人一首が楽しみだった。
のりとが75調だったのでなじんでいた。
中学に行くようになってから万葉集の注釈書、古事記伝等を読む習慣が出来ていた。
全寮制で厳しいしつけを受けたが、神主になる基礎の心構え、祭式の一部始終を叩きこまれた。
3年~5年までは古典、を教えられた。
数学、英語の時間は極端に少なかった。
戦争中なので、神典なので全て何の前提もなく受け入れなければならなかった。
口語の教科書の中に、折口教授、武田祐吉教授之文章が取り込まれていた。
古典に対する考え方が広くて、この先生の教えを受けたいという想いが抑えきれなくて、5年の時に国学院大学に行きたいと、受けたが英語ができなくて落ちてしまった。
英語を一生懸命勉強して、翌年受かった。

大学予科長が、戦争に行くものが出てきて、再び帰ってくる来ることのできない人も出るだろうから、今年から予科に入ったものにも、この大学の最高の教授の講義が聴けるようにと時間割を組んだとの発表があった。
金田一京助教授の言語学、武田祐吉教授の万葉 折口教授の国学 授業が聞けるようになった。(昭和18年 学徒出陣の有った年)
折口教授の出陣する学徒への送別の詩が朗読された。
「学問の道」と言う題の詩だった。
お前たちの1000人の学徒が戦陣に立ってゆくが、全部亡くなったら、国学は滅びるだろう。
1人でも生きて帰ったら、そのものに依って国学は再び興るだろうと言ってくれた。
「手の本を捨てて戦こう 身に沁みて 恋しかるらし 学問の道」 最後にこの短歌を述べた。
講堂中の若者たちがシーンとした中で、呻きの様な声が感じられた。
折口教授の学問、文学に引きこまれていった。

短歌結社に「鳥船社」 に入るのは 国学院、慶応の大学、大学のOBからしか入れない。
(試験もあった)
2年の時に「鳥船社」にいれてもらった。
先生の家にも通うようになって、庭の木の枝おろしをしたり、薪を作っていたりした。
原稿の清書を依頼されるようになり、その後、うちに来ないかと言われる。
先に住みこんでいた書生(藤井春洋)が硫黄島への配属命令が来て亡くなる事になる。
私は国学院大学に通いながら、折口先生の身の回りの世話をすることになる。
先生の歌の指導は変わっていて、その場で題を出して3首ぐらい作らせる。
題は言葉ではなくて、絵を見たときの印象を歌にさせたりした。(予測がつかない)
歌は凝縮力だから、それをきちっと心に付けるための訓練でもある。
言葉が洗錬されて、ここはこの言葉でなければならないというところまで詰めなければならない。

老、と若 老(OB、40代半ばを越えている人達) 先生は戦後若に対して、優しくなった、あんなのは今まだなかったぞと言ったりした。
教え子に対しては、非常に細やかな人だった。
感受性が鈍感だと叱られる。
道のほとりにある荒神様、お地蔵さまだとか、に必ずハンチング取ってお辞儀をする。
神社でも同じ。
この人は霊的なものに対して、差を付けない人だという事が解った。
硫黄島に出征した書生は戦死してしまって、毎年供養した。
学者ではあったが、非常に優れた細やかな教育者だった。
朝5時から夜の12時まで、口述筆記をしていたりした。
「海やまのあひだ」  「春のことぶれ」の後半に入ったところで亡くなる。
口述筆記をやっていると私の心に触れる事がある。
「人も馬も 道行きつかれ 死ににけり 旅寝かさなる ほどのかそけさ」 折口信夫の歌
ほど→時間的な期間 永い一生をかけての旅路の中で力尽きて馬方も馬も死んでいった。
その何と過疎感なことよ  判ったいたと思っていた。
しもの句で主客が変わるような気がした、自分自身が昔の人と馬と同じようにいつ終わるともしれぬ旅を重ねているからなのだ、と気ついた。

亡くなった翌年、創刊号をだす。 柳田 國男が追悼文を出すが、折口氏が旅をしてその旅の中で歌を作っているが、折口君は非常に深い心を持たせて、それを旅の歌として深々と表現しているが、そこのところが僕はそういう体験をもたなかったという表現をしているが、判る人は判っているんだんなあと思った。
口述筆記をしながら伝えたかったんだろうなあと、後になって判った。
一緒にいた7年間は楽しくもあり、歌を通しての教育、魂の感染教育といったらいいのかもしれない。
先生の墓は変わっていて、大阪にある墓には分骨したが、一番主たる墓ははるみさんの故郷石川県の海に近い砂丘の墓地 
「最も苦しき 戦いに もっとも苦しみ 死にたる 昔の陸軍中尉 折口春洋 ならびにその父
信夫の墓」 と刻んである。(昭和24年に作った墓)
「亡骸は いずくの土と成りぬとも たまは翁の もとにいかなん」
本居宣長の墓のそばに平田篤胤 の墓がありそのように刻まれているが、それをまねて
「あらみたま ふたつあいよる み墓山 我が悲しみも ここにうずめん」
を私は立てさせてもらった。
歌とか俳句という伝統文化は死ぬ間際まで作れるので、意味の深いことだと思う。
無内容な歌 最晩年に折口が言ったが、 ふーっと雪を手に握りしめると水になって指の間から落ちてゆく様な、そういうものを人の心に響かせる、そういう歌を究極に考えていたんだろうと最近そんなことが多少判ってきたという想いです。