西山和宏(押絵羽子板職人) 江戸の華・羽子板の魅力
浅草の羽子板市が江戸の風情を伝えています。
1962年 西山鴻月さんの長男として、向島に生れました。
幼いころから鴻月さんの傍らで、押絵羽子板の心と技を学びました。
師匠の技とはよく見て聞いてその通理り行うというのが伝統を継承する基本でした。
和宏さんは高校を卒業して羽子板職人になって、30年を超しました。
2年前鴻月さんが90歳で仕事を離れた為、和宏さんが200年続く押絵羽子板の伝統を引き継ぐことになりました。
江戸の華、羽子板の魅力を伺います。
長唄の大曲、京鹿子娘道成寺 赤の衣装 (父の作品)
金閣寺の雪姫 ピンクの衣装 (私の作品)
歌舞伎、狂言 昔ながらの女の羽子板も手掛けている。 つまみかんざし 妻が作っている。
正月は羽子板を飾る昔からの風習がある。
2尺羽子板 60cm 桐の板を使用する。(軽さと音がいい)
父が顔を描き、私が衣装を作ってきましたが、父も93歳になるので目が不自由になってきたので、現在は私が全てを作っている。
和紙を数枚を重ねたものを厚紙にしてその中に、軽い綿を入れて布でくるんで花を作ったり人物を作っていたと聞いている。 立体的になっている。
ほとんどが歌舞伎役者 世相を反映したものもある(アニメキャラクター、野球選手等)
1か月に1回程度は歌舞伎を見に言っている。
押し絵と羽子板は別の物で有った。
室町時代の看聞日記と言う書物に最初に出てくるが、京都の公家女官が紅白に分かれて羽根付きに興じられたという文章が残っている。
押し絵は婦女子の(公家の文化から来たと思われるが)自分の着物の残りで花鳥風月を表して、薄い和紙に綿を入れて、きれでくるんだ押し絵細工をしていたと思われる。
歌舞伎が全盛になった江戸時代中期、後期にかけて浮世絵師だろうと思われるが、めでたい羽子板に歌舞伎役者をテーマに作ったら売れるのではないかと思って作ったのだろうと思う。
参勤交代で江戸に来た殿様、家臣がお土産に持ち帰った。
羽根を付くというのは、無病息災を祈る神事の様な遊びの様な。
疫病は夏に発生することがおおく、病原菌のもとの蚊を食べてくれるのがトンボらしい。
羽根をトンボにたとえて、年の初めに羽根を付いて、空気中にある蚊を食べてもらおうという様な事で始まっていると聞いている。
女の子の生れた初めての正月には、羽子板を送るという風習があった様です。
浅草で行われる羽子板市 12月17,18,19日 毎年行われる。 30軒ぐらいの店が出る。
母は88歳になるが60歳までは丸髷を結っていた。
玄関を使って羽子板のミニ博物館で明治、大正、昭和の羽子板を展示している。
始めたのが高校卒業して18歳から33年間やっている。
父は大正生まれで、小学校しか出ていないが、墨田区の伝統工芸保存会が36年前に発足して、当時父親は50歳台後半で、会長職を長くやっていた。
挨拶、講演会等で文章をかくようになって、文章が整ってきたのではないか。
墨田区の名誉区民に王貞治(生れて中学までいた)と一緒に平成22年に表彰される。
人の顔、姿を映している仕事なので気持ちは作品にですので、いい人間でないといけないと言われた。
18歳で言われて、意味をなかなか理解できなかったが、20歳の時にある老夫婦がきて、孫に何を言ったも聞かないが、この人が作った羽子板ならば私たちの想いが羽子板を通して孫に伝わるのではないかと、言われた。
20歳であったが、心が大事なんだなあと私が感じ、それが現在の私の骨の部分になっている。
剣道で気、剣、体 という言葉があるが この三つが一緒にならないといい到達にならないが、気が一番大事で、気があれば剣と体はおのずと付いてくる。 というたとえ 今、剣道5段です。
部品は50~60有り、綿でくるんで、衣装描いたり、顔をかいたり、かんざしを作ったり、小道具類も作るので手間が結構掛かる。
20本作るのに1ケ月かかる。
最初下図描き、型紙に移す(50~60個)
舞台から役者が飛び出てくるような臨場感、躍動感、迫力がでるのが、飽きの来ない羽子板になる。
歳を重ねるうちに惰性に流される事はあるかもしれないが、向上心が常に物作りでは持っていないと前に進めないと思う。