岡野弘彦(歌人) 三十一文字(ミソヒトモジ)にいのちを吹き込む(1)
岡野さんは大正13年 三重県の古い神社の神主の家に生まれ、幼いころから和歌に親しんできました。
大学生の時から国文学者で歌人の折口信夫 (釈迢空)に師事して、卒業後は母校である国学院大学で教鞭をとりながら、歌人としての活動を続けてきました。
1979年かあらは歌会初めの選者と成って天皇皇后、両陛下をはじめ、皇太子さまや雅子様の和歌の進講も務めてきました。
2007年には歌集 バクダット燃ゆ で戦火の中、命を落とした人々を悼み、おととしには東日本大震災をテーマにした、歌集 「美しく愛しき日本」を発表しています。
去年11月には、文化功労章に選ばれました。
今年90歳になる。 必ず元旦には 朝日新聞なら斎藤茂吉、毎日新聞なら折口信夫の歌がかなり大きな活字で組まれて出てきたが、今はそういう事は無くなったが、正月、歌は普段よりも多く作らなければならない。
「夜ごと夜ごと 夢の枕に立つ花を 幻に見て 老いてゆくなり」 (我が魂の枕の山)
本居宣長が古典の素晴らしい研究をしたのに和歌はあまり上手な人ではなかったというのが定評だが、亡くなる前の年から、亡くなる間際までにかけて、300首ほど枕の山の歌集にのこす。
そこに残されている歌は宣長が床について枕に頭を置いてから様々な桜の幻が浮かんでくる、その歌集はいい歌がある。
私もまねをして我が晩年の枕の山を残しておこうとした。
昨年 文化功労章頂く。
私は典型的な戦中派でして、小学校1年 満州事変 中学に入る時が日中戦争 卒業する年の秋に大東亜戦争が始まる。
戦争と自分の人生が、一番若い物を感じやすい時期がぴったりと重なってしまっていて、戦争が終わってどんなふうに心を立て直していっていいのか、一番苦しんだ年齢層だとおもいます。
平和に過ごすことができる様に心に思っているが、それが意外なことに戦争がどっかで続いている。
一番近いところでは東日本大震災がある。
「美しく愛(かな)しき日本」 「かなしき」は古い日本の言葉は人をいとしく思ったり、国を大事に思ったるする心を「かなし」で表現した。
我々祖先は大きな災害にあってきて、それで居ながら四季の変化の美しい日本列島の生活が日本人の心をこの上もなく平和で温かく優しいものにしていると思う。
1500年にわたって作り続けられてきた、和歌、短歌の伝統は形式がずーっと変わらず、民族の大事な感情情熱を凝縮させて歌い続けてきた点でも、類の無い、詩の形 文学表現の定型と言っていいと思う。
漢詩 奈良時代にはおおきな感化を受けた。
和歌は女性の手に依って作り続けられてきたことがある。
「したたりて 青海原に つらなれる この列島を まもりたまえな」
海の産物に恵まれていて、気候は穏やかで、ところどころで山が火を吹いて、突発的に地震が起きて予想もしなかったようなところまで津波が来る。
民族が列島の美しい風土の中で、段々心を優しく美しく繊細に淘汰せられていって、素晴らしい日本の文化を生みだした。
万葉集、古今集、伊勢物語、源氏物語 物語を生みだした民族は古代と違わない形で列島で保ち続けているというのは日本人の大きな誇りとして良いと思う。
源氏物語には要所要所に和歌がちりばめられていて、大きな働きをしている。
2007年 「バクダット燃ゆ」 平和への想い
バクダットは子供のころから親しみを覚えていたところだが、あんなふうな形で銃撃されていった。
大きな戦争をして、我々は深い反省の中で生きてきたつもりなのに、世界で戦火が絶えないのだろうかといつもあって、バクダット燃ゆ と言う題を付けた。
何故そうなってしまうのだろうと思う。
宗教と言うものが現在では闘争の原因になるような形になっている。
我々は苦しんで考えなければならない、展開させていかなければならない。
戦中体験が裏にあるので。
私も予科の2年になった時に、特攻隊要員の募集があって、自分たちが犠牲にならないと国は救えないんだという切羽詰まった気持ちがあって、志願しようと思って書類を取り寄せたら、父親が駆けつけてきて、一晩父親から説得されたが、20年1月6日に軍隊に入った。
同級生が特攻隊長になって、死んでいった。
東京で大空襲にも会う。 一晩明けると焼け野原になっていた。
東京から茨城県ほこた中学が宿舎になっていて、そこに帰ると桜が満開だった。
東京の桜並木が一本一本炎になって燃え上がってゆく様子を目に焼き付いているので、ほこたの校庭の桜がはらはらと軍服に散りかかる。
6日間、死体を焼いていたが、死体の油が匂い立って、俺は桜は一生美しいなんて思えないおもわないはずだと思った。
「すさまじく ひときの桜 ふぶくゆえ 身はひえびえと なりてたちより」 と後に詠んだ。
「友多く 帰らざりけり 焼け原の 丘に残れる 大学の門」
物ごころついてから、人を殺すことばかり教えられてきた。
敵愾心をかきたてられて、敗色が濃くなってくると、神風が吹くという事が合言葉のようになって日本人全体が死に絶えるまで、我々は戦うのだという事が本当に心の底から信じなければ、日本人ではない様に言われた。
それが間違っていた事が、30代、40代の人たちは割と単純に切り替えたが、我々の世代はどうしても切り替えができなかった。
旅に出て、伊勢神宮に行った。
30分ぐらいひざまずいて祈っていたら、警備の人が立ち去れという。
なんにも心に響いてくるものがなかった。
「あまりにも しずけき神ぞ ちぬられし てもてすつぐのを すべをおしえよ」
自分の手から血がにじんでくるような戦後に反省がある。
伊勢、志摩、熊野まで行って、神社の縁の下に野宿していると、呼んでくれる。
祭りの夜に家に泊めてくれて、腹いっぱい食えと言ってくれる。
異人歓迎 旅人を歓迎する宗教的な思い。 是が大事な心なんだと、いくらか心が和んだ。
翌年近江に行くが、私の心がやっと静まる。
壬申の乱 都を大和に持ってきて新しい日本の統治、律令制度に依ってきちんとした政治体制を築こうとする。 近親の悲しい争い。
柿本人麻呂等が が悼んだ歌をうたう。
「近江の海 ゆうなみ千鳥 ながなけば 心もしのに いにしえおもほゆ」 美しい哀切な歌
心もしのに→心もくたくたになって 悲しい戦いの事が思われる
「いにしえの ひとにわれあれや ささなみの ふるきみやこを みれば悲しき」
不幸な戦争の中で死んでいった魂を和歌の形で悼んでいった、祈りの歌、鎮魂の歌と言う想いがつくずくした。
前年からの想いが静まった。 近江で静まった。
「ゆく春を 近江のひとと おしみける」 芭蕉 同じような思いがあることが段々判ってくる。
近江の国が持っている不思議な心を鎮めてくれる、安らぎを感じていると事がある。
私も近江に心を救われた感じがする。
繰り返し、繰り返し日本人同士の争いが繰り返されてきた、そういう事を改めて身にしみて感じた。
歌、物語の中に、そういう想いが濃く伝えられている。 心を深く癒してくれるし、励ましてくれる。
古い都に立つ事によって、歌に込められた祈り、鎮魂の想いを実感する事が出来た。
大学を教師になるが30代から60代まで毎年万葉旅行をして、自分の身体で感じ取る旅行をした。
いまも世界の平和を歌にする。
「美しき ことだまは 我にやどりこよ このあかときの 空に祈らん」
和歌を作っていると 言霊 魂が細やかに自分の心に宿ってくる、日本人には歌に対する信頼感がある。
「