2014年1月1日水曜日

坂東玉三郎(歌舞伎俳優)     ・新春に語る私の新たな挑戦

*明けましておめでとう御座います。
 昨年の3月にブログを立ち上げて以来(以前記録してあった内容追加を含め)続ける事が出来 て、新しい年を迎える事ができました。
 今年も引続き頑張っていきたいと思いますので、よろしくお願いします。
 
坂東玉三郎(歌舞伎俳優)   新春に語る私の新たな挑戦
歌舞伎の世界の正月の習わし
後輩が先輩のところへの年始の挨拶、飾りも正月らしくなる。
2日の大阪で舞踊公演がある。 正月はほとんど舞台がある。
1964年6月に玉三郎襲名して(14歳)、今年で50年になる。
お玉という役割 (玉三郎なので) 芝居の途中で襲名の挨拶を行った。
両親が歌舞伎座に良くいっていて、6歳の時には弟子入れが決まっていた。
先代の幸四郎、松緑、勘三郎さんとかを見ていました。
昭和36年の時、十四代目守田勘弥に弟子いりして、39年に養子になった。
尾上 梅幸の弟子が近所にいて、父が飲み友達だったので、歌舞伎へどうというような、ほんのちっちゃなきっかけから歌舞伎の世界に入るようになった。

女形、東洋に残っているが、一番残っているのが日本。
能楽は600年前から女の役を男が演じている。
ギリシャ悲劇、シェイクスピアの劇でも、女の役を少年がやっていた。
段々ギリシャ悲劇、シェイクスピアの劇も女優さんがやるようになった。
能楽、歌舞伎には残った。  俳優業としての一つの分野と成る。
守田勘弥(養父)は立ち役なので女形の事はほとんど教えてはくれなかった。
そばにいた、坂東たもん? ずーっと付いていてくれて、普段のたたずまいを教えてくれる、中村歌右衛門さん、中村 芝翫さん、梅幸さん 多くはこの3人に方から学美ました。
見るという事、初歩的には真似るという事。
先輩とは身体も資質、違うので教えられたことができないことがあるので、自分なりに消化するにはどうするかと言う工夫をする。

あまり壁にぶつかったことはなかった。
精神的にも、肉体的にも疲れる事で、すこし調子が落ちることはあったが、自分がこの道を進んでいいかどうかという様な事は悩まなかった。
不調の壁はたまたまあった。 ただただやってきたことでしょうか。
1960年代70年代 ラジオなどで音楽を流しながら語る番組が沢山企画され、洋楽が多かったが、邦樂で出来ないかと言うNHKからの話がありまして、「玉三郎の邦樂ジョッキー」
1976年4月から1年間行う。(26歳)  楽しくできた。
現代劇、バレー、映画監督、シェークスピア劇への出演、演出などいろいろな分野に挑戦する。
世の中の外に出たところから、自分の位置を客観的に見たいという気持ちはあった。
松緑、幸四郎さん等もオセロ、ベニスの商人 とかをやっていて、自分もそういうものをやってみたらどういう風な歌舞伎に対する見方が、変わってくるだろうかという事で、マクベス夫人をやり、松緑さんがオセロをやるという事でオセロののデズデモーナをやらせていただいた。

歌舞伎ならば歌舞伎の世界の人達と作っていくわけですが、新劇と言うか、そういうところから集まってきて、俳優もいろいろなところから集まって、新しい舞台を作ることを知るわけです。
自分の演劇的な広がりも出来るし、やったことによって他の演劇を見ることができる。
大変大きな意味でした。
次は海外の物がみられるようになり、オペラ、バレーを見たりだとか、20歳台にやって、演出にも興味を持つようになった。  映画も見たり勉強した。 
演劇は総合芸術なのでいろんなものを見なければいけない。
自分のやってきた中で、歌舞伎以外は1割は無い、5%以下ではないか。 
新派は多くやらせてもらったが。
沖縄の組踊に挑戦  
能楽にも近いところもあり、組踊がどんなものかというものを知りたかった。(体験して判る)
もともとは踊りが元で、琉球王国の王朝の踊りに近代になって物語が付いてきたもので、沖縄独特のもの。

『聞得大君誕生(ちふぃじんたんじょう)』
新作組踊 琉球王国をおさめる王の妹の役 神事をつかさどる。
地元の沖縄の芸術大学を卒業した人達は本当に熱心で一緒にやらしてもらって幸せでした。
古典に目を見ける人たちが少なくなってきている中で、こんなに若い人たちが古典を愛している事に対して勉強になった。
東京の国立劇場で3回、沖縄の劇場に3回 全て超満員だった。
2008年 中国の崑曲 蘇州の崑曲がもともとになってきたに向かっていった。
京劇が出来てくる。 『牡丹亭』に巡り合う。日本の牡丹灯籠に影響を与えている。
とうとう言語でやることになる。(蘇州語で行う)
音楽がすばらしかった。 若い方々が熱心であった。

趣味は海に入る事 兄がダイビングの草分け的な存在で、ショップをやり始めて遊びに行っていた。
10数年前からダイビングを始めました。
甥が素潜りを研究しているので、素潜りから始める。
免許がないと機器類を取りあつけえないので、免許を取った。
2000年に鼓童の人達から呼ばれて、アマテラスと言う事で共演しました。
2012年から芸術監督になってほしいといわれて、将来の方針を出したり、ツアーの新しい作品を作ることをしてほしいといわれて、受ける事にしました。
培った総合的なものを古道の皆さんと新しく創作したのが「アマテラス」です。

その日その日を精一杯やるのが自分の方針ですし、本当に明日明後日、来年がどうなるかわからないので、健康で全力で舞台に上がれるというのを願うのが一番の抱負です。
健康で有れば舞台に対する力も十便に発揮できるので、願いは出来る限り健康で、皆さんに心地よい物を舞台でお見せできる身体であります様にとう事ですね。
全力でやっていけば、自然の流れがいい方に、、いろんなところに運んでくれて言ってくれると思います。
人対人で伝えることが一番大事だと思います。
その場その場で最善を尽くして伝える。
私たちの下の世代が頑張ってきているので、その後ろ盾になれればと思っています。