2014年1月6日月曜日

宮城まり子(ねむの木学園園長)     ・私の子供達、共に生きる日々 2

宮城まり子(ねむの木学園園長)   私の子供達、共に生きる日々 2
日本で初めての肢体養護施設を設立して、芸能界から姿を消しました。
まり子さんの良きパートナー作家の吉行淳之助さんとの3つの約束も伺いました。
それから45年、今は静岡県の掛川市に移転した広大なねむの木村には子供たちが寝泊まりする施設や充御意うを受ける教室作物を作る農園、果樹園のほかガラス屋さん毛糸屋さん雑貨屋さん、子供達ん絵の作品を展示する美術間など、私の子供達共に生きつ日々 をお聞きします。

子供達は「お母さん」、「まりこ」「母ちゃん」 職員からは「まり子先生」と言われる。
現在は72名、5歳~70歳まで 職員は82名 施設を作ったのが45年前。
昭和43年 浜岡町からスタート その時は子供は8名 先生は街の小学校から派遣されてきて4名 施設の広さは2間でした。
建てていたときは怖くなかったが、段々立ってきたら恐くなって子供たち8人顔を見たときには総毛だって、この子らを私が看るのかと思ったら、恐かった。
責任の重さで、責任を持って行けるのかなあと思いました。
お母さんが、お山の中の一軒屋に住んでいて、医者が遠いいとか、学校が遠いいと言って連れてくるのは間違っていると思う。
子供が一番楽しく勉強できて、お友達がいるのが一番いいのではないかと思った。
辛かったことの方が多い。 その前の4年が辛かった。

役所の許可、書類も作るのも、相談する人もいなくて、辛かった。
厚生省も書類に手本も無くて、さよならと言って笑って、出た途端に泣き出したりした。
エレベーターを待っているときに、柱にもたれて泣いているときに、背中からスーッと滑って、降りてきて足を投げ出して、書類を放り出して泣いていた。 他のところでも同様にあった。
職員もTVで知ってはいたが、仕事なので簡単には許してくれなかった。
何べんも何べんも行くうちにいいお友達になってしまった。
役所なので、スーツを着て行ったり、長いドレスを着て行ったりしたら笑われて、お辞儀をするとお尻が全部に見えてしまう様な短いスカートをはいていって、こんにちわと言って部屋中を歩いて回ったらぷーっと皆噴き出して笑った。 それくらいから皆優しくなった。 それから3年掛かった。
舞台に間に合わないので時代劇の真っ白なお化粧をしたまま厚生省に伺ったこともあった。

最初8名 全部覚えている。 
背が小さくて痩せて声も余りでなくて、この子は食べるのが嫌いだという事で、そんなことがあるのかなと思って、何が好きかを聞いたら肉が好きだというので、カレーライスを作った。
食べよう、私もいっしょよ、と言ったら、来て食べた、全部食べた。
そうしたら涙が出てきて、涙が出てきて、お母さんにカレー全部食べたよ、と言ったらお母さんはそうですかといってくれたが、その子を丈夫にしようと思って、食べたよ、食べたよと叫んだが、あっちにも気の毒だったし、私がはしたない女だという事が判って、今でもあの声を覚えています。
今は元気になりました。 10年ぐらいいました。

絵を教えたり、音楽、ダンスを教えたり、自分の能力を発揮できるような教え方をしている。
絵は描いたら、上手いとは言わない、おいしいわという。
「良いわ」と言ったらそういう絵がいいと思ってそういう絵を描いてしまうので、自分で好きなように感じた事を書きなさいと言った母の様にしている。  母の影響が強い。
夕方 「としみ」ちゃんがハーモニカ吹いていて、悲しいという。 
街中に音楽が流れるが、寂しい歌が流れる。
ビクターに行ってジャズのレコードを購入しようと思ったら、ただで10cmの高さぐらいくれた。
それをかけた。 私が箸を持って、私の茶碗を叩いたら、皆が叩きだして、テーブルも叩いていいんだよと言ったらなんでも叩き出す様になった。 子供はビートがある。
うちはそういう曲だけになった。
ボール紙でギターを作って、自分のズボンのゴムを取って弦にして、やっていた。
太鼓、あき缶に小石を入れてマラカス、空の瓶をマイク代わりに歌っていた。
「おかあさんの歌」 を自分たちで作詞作曲をして歌ってくれた。
かあさん かあさん 病気をしないで、心配だから・・・・と言う内容の歌をグランドで歌ってくれた。
本物の楽器を買ってあげた。   譜読みから勉強している。

「ママにささげる歌」 5人のグループの歌
「ママ ママ 優しく僕を愛してくれたね まま、ままごめんね 僕の母さん
ママ、マま優しく生きてゆく心 教えてくれたね 僕の母さん   幸せをくれた母さんの為に
お祈りをしてるよ 昼も夜も ママ、ママ 今ではこんなに大ききなったよ 有難う 母さん
僕の母さん  幸せをくれた 母さんの為に お祈りをしているよ 昼も夜も
ママ、ママ 今ではこんなに大きくなったよ 有難う 母さん 僕の母さん 僕の母さん」

CD,DVDを入れた。
私は一人ずつ稽古をして、私の声がでなくなり、直ってきたが、長ーい疲れだと言われた。
夜中に悲しんだりしたが、私の声と取り換えたんだと思ったら、悲しさはなくなった。
まりこさんが子供たちへのインタビュー。  歌を歌うとおなか減る。? 減る。 
演奏どういう風に良かった? 一曲、一曲違った色と絵が見える様で良かった。
ピアノ、サックス、ベース、ドラム の4人 悲しい音、嬉しい音が出たりして、自分が優しくしないといけないと自分のどっかで鳴っている。
一流のを聞くとどう思う? 僕も一生懸命いつもお母さんに勉強させてもらっている事をもっともっと一生懸命やりたいなと思うし、心がいっぱいになる。
今、抱きしめてあげたい。
じゅんちゃんを、ここのところ抱きしめている。
じゅんちゃん 酷い目にあっているので、愛されていることを教えてあげたい。 
入園時は抱きつくことはしませんでした。
抱っこ、抱っこした。 抱っこ、抱っこした。 頭の能力は1歳半ぐらいです。

子供たちが描いた壁画がある。 掛川市
ねむの木学園前でバスを降りると、桜の木があり春になると凄い 片側に200本、もう一方100本
1997年に掛川市にいく。 
身体障害者 のどかな家(お年寄り) 感謝の心、優しいおうち 星に祈る 吉行淳之助文学館
ドングリの格好をした館(子供たちの絵が展示)
民家もあってそこに住んでいる人たちもいる。
一緒に暮らしているとみじめだと思うのは間違いだと思う。
何にもできなくても、なんにも感じなくても、感じさせるようにしたい。
私ね、もうじき死ぬと思っている。 遺書は半分書いた。
ありったけやって、CD、とか一杯売れたら、もう一本映画をとりたいと思っている。
あそこを守ってくれる人が欲しい。
一人では無理、絵の部、音楽の部それぞれにやってもらいたい。
経営は? それを考えるとなかなか死ねない。 自分の物なんかは買わない様にしている。
心が子供と通じる人がいてほしい。