2016年6月27日月曜日

八神純子(シンガーソングライター)   ・かじかんだ人の心に、歌を!

八神純子(シンガーソングライター)   ・かじかんだ人の心に、歌を!
水色の雨、パープルタウンのヒット曲でおなじみ、1986年イギリス人の音楽プロデューサーと結婚して、アメリカのロサンゼルスに住み、1男1女を育てました。
15年ぶりに日本で音楽活動を再開しようとした時に、東日本大震災が起きて、八神さんの人生は大きく変わりました。
祖国日本の大災害にいてもたってもいられず、必死で帰国した八神さんは、東北の支援活動に乗り出して、協力者をつのって支援ライブ活動に奔走しました。
その後、熊本地震、病院の入院病棟への慰問等、現在もアメリカから帰国してチャリティー活動に東奔西走しています。
八神さんを逞しく支援活動に奮い立たせたものは何だったのか、被災地の人達や、入院病棟の患者さん達と、どんな交流が続いているのか伺いました。

日本の活動から退いて15年、日本に歌を届けに行こうと言う事で、2011年3月11日ロサンゼルスから日本に向かった。
日本に辿りついて、コンサートは延期になり、名古屋の実家に戻って、悲惨な状況のTVを見ました。
八神さんはエンターテイメンター、ミュージシャンなのでこういう時には何かしてくださいと言われて、何ができるだろうと思いました。
ラジオ番組にだしていただいて、一緒に出来る人を探そうと、メールを下さいと言う事を発信しました。
色々な方からメールをいただいて、出来れば一緒に行動したいとか、お金では何とか協力できますとか、被災地に近いのでどこへでも車でお連れします、という様な内容がありました。
太平洋を越えてのPPCと言う活動をスタートしました。
東北支援のイベントを月に一回と、アメリカと日本を行き帰すると言う事をスタートしました。
山形のイタリアンシェフの奥田政行さんが被災地に入って炊き出しをスタートしているが、腹を癒すだけでなく、心を癒すためには音楽が必要だと言う事をおっしゃいました。
奥田さんとはそれからも活動をして、最近は熊本の震災にも今度は女川町の人達と阿蘇に応援しようと言う事にしました。

最初奥州市でチャリティーをやらさせて頂いて、それから南三陸町と陸前高田に入りました。
瓦礫が山となっている脇で歌ったこともあります。
最初は牡蠣の養殖をやっていた30名程度の方たちでした。
童謡を歌っていましたが、「水色の雨」は詩の内容がちょっと合わないと思っていましたが、要望があって歌ったら、皆さんの顔がぱっと明るくなるんですね。
奥田さんの炊き出し料理も素晴らしかった。
最初は欲張って5か所位回りましたが、その場から離れるのがつらかった。
その後は2~3か所にしました。
協力してもらったお金とか、自腹で行いました。(マネージャーとかは無し)
自分の力を信じてやらないと人との良い関係も築けないと思いました。
メールを送っても返信が無くて、自分で力をつけようと初めて思いました。
先ずは人を頼らないと言う事で、メールが来なかったので次に電話をかけました。
最初に電話をかけたのがJAの女性部で、八神さんは名古屋出身なので、愛知の知多の方たちが一緒にやりたいとの事で、場所はセントレア国際空港、自分は力があるんだと思いました。
メールではなかなか動かない、声を届ける、駄目だったら会いに行く事が必要だと思いました。

自分の為にやるのは限られているが、人の為にやろうとすると、何倍にも力をだすことができると思った。
阪神淡路大震災の時にロサンゼルスの自宅でニュースを聞いて歌を届けたいと思ったが、被災者が歌ってと言う様な感じではないと言う事で、その言葉でホッとした自分もあった、自分の歌が求められるか判らないし、迷惑がられたらみじめだと思った。(弱い自分があった)
今回東北の時には、飛んで行く勇気が備わっています。
大槌町街全体が流されていて、寒い夜そこでチャリティーをやって、女の子が歌を有難うと言われて、サンキューカードをもらって、その小学校の3人の子を連れてニューヨーク(9・11でのビル)へ連れて行って、パワフルな街になったことを見せたかったので、歌だけではなくそんなこともしました。
「枯れ木に花を咲かせましょう」 チャリティーのCDになり東北支援をしました。
この子たちは小学校3年生でしたが、去年の春、中学校に行くになり、卒業するので、伺い立派に成長した姿を見ました。
ピアノを弾く姿を見てびっくりしました。
退場の時に「枯れ木に花を咲かせましょう」 の曲が流れ歌を聞きました。

継続していると次に何ができるかが段々判ってくる。
私の声は紅白時代をクレヨンの色で言うと6色だったのが、48色位あると言うぐらいの表現力が付いたと思います。
自分の人生色々あった方がいいと思います。
病院の慰問は、リクエストがあったので歌を歌ったりする活動をしました。
亡くなった人の友達から、あの日は本当に嬉しかったと言うメールをいただいたりしました。
人とのつながりは時間ではないと凄く感じました。
アルバム「There you are」は私にとっても一生思い出に残るアルバムだと思います。
以前の考え方と違って、自分の歌がどういう力を持っているかという事を貪欲に知りたい。
東北の人達に教えていただいたのは、「人間いつ何が起きるか判らない、明日のことはわからない、、確かなのは今だけだから」、私の歌も同じで確かに歌えるのは今日だけと思って歌うと、毎日どこかで歌いたいと言う気持ちと、私の歌を聞きたい人のところに歌を届けたいと思う様になりました。
アルバム「There you are」の中から「1年と10秒の交換」
NHKの取材で女川町で出会った佐々木さん、両親が旅館を経営していたが、彼女は旅館を継ごうと心に決めていたが、両親に告げずにいて、津波にあって両親と旅館を失ってしまった。
彼女は大事な一言を両親に言えずに終わってしまった。
自分のこれからの人生、1年、これを諦めて10秒だけ絶対会えないはずだった人にもう一度10秒戻ってくるんだったら、果たしてその交換は出来るかどうか、それがこの曲です。
彼女はこの曲を聞いて両親に会えるような気がすると言ってくれました。
もう一回抱きしめられたいという気持ちが最近すごく強いと彼女はおっしゃって、この曲を聞くと隣に両親がいるような気がすると言っていました。