2016年6月22日水曜日

吉増剛造(詩人)        ・詩の可能性への挑戦(2)

吉増剛造(詩人)        ・詩の可能性への挑戦(2)
折口信夫 歌人の釈迢空(しゃく ちょうくう)という名前でも知られている。
子供のころの疎開地が和歌山で、折口さんは大阪の人で、天王寺中学に通いました。
折口さんは慶応の文学部に居て、その魔力みたいなものが濃厚に残っていました。
昭和27年放送の番組で折口さんが亡くなる1年前のものを今回再放送。
「・・・流行が速やかに過ぎ去ってしまって、「飛んでも発奮」なんていう言葉は考えている間に使わなくなって、そういう言葉が増えすぎていると思う、・・・はやり出した言葉はある期間使わないと意味が無いと思います。・・・女の人ももっと良い声を出してほしい、もっと活きた声を出してほしい。・・・女の人の言葉が、単語なんかがぞんざいになりましたね。・・・女の人は日本人の半分だし、女の人の言葉は気を付けて頂かないといけないと思います。」
声が残っていると言う事は奇跡的です。
洗練された特異な体質の声が聞こえてきます、これが尽きせぬ魅力ですね。
折口さんの声は説明できなくてもなんか感じるはずです。
折口さんは芝居を見ていたので、声が裏がえる様なところは芸能をするひとの声の感じもあります。

歌人 与謝野晶子の声
短歌を三句歌った声
非常に微妙なところにまでこの人の体の奥に持っている、旋律、音調、血液の流れみたいなものが何とも清調に清く澄んで聞こえてきて驚愕しています。
聞いた瞬間にくっきりと頭の中で、薄いピンクの剃刀が頭の中に通って行くようにして、覚えちゃった、一体これ何、と思って分析しました。
イメージ的にも追っかけることができる。
頭がどうして与謝野晶子さんの歌だけこんなに鮮やかに覚えてしまったか、それに驚愕して、この天才歌人を30年位追っかけています。
肉感的な大きな与謝野晶子さんは声がとても小さかった。
本当の歌は喉にあるところに隠れて少しづつ出たり引っ込んだりするもの、女の人が持っている歌の秘密を与謝野晶子さんは体現している感じがします。
与謝野晶子さんの心の中の情感が読む声の波立ちと、うっすらと淡い血液がフーっと波立って来る感じと共に、私たちに過不足無く伝わってくる。
体内から言葉の妖精が少し顔を見せたり沈んだりしている様な様子で以て伝えてきている。


斎藤茂吉の声も凄い。
活字で読むだけでなくて、声が残っている奇跡を皆さんに上手に届ける、そういう試みを続けていかなければならない、それも詩の仕事ですから。
与謝野晶子さんを自分のお母さんの様に大事にした堀口大学、堀口大学研究を私は大分ブラジルでやっていました。
声を聞く事で寄り添って行く様な、歌を作った時の状況、息使いを判ると同時に、自分もそれに沿って生きている、それが大事。
見えないところで自分の中のもう一つの魂が成熟し始めている。
そうすると過去の事ではなくて、今に生きて行く聞く自分と繋がれる。
感受性の鋭い人は活字を見ただけでそういうものを感じる。

最近本を出版 「我が詩的自伝」 
この本を作る事によって、声の複数性、そこに存在している声がふーっと膨らんできた、そういう事が起こりました。
「詩集 怪物君」
5年前の大震災から書きはじめました。
詩なんて何ができるのと問われて、これは必死になって答えなければならない。
東西の大詩人の言葉を引っ張り出したり、夢に責任を持たなければいけないと言ったり、かんがえたり、5年間に渡って書き続けて、恩義を感じて亡くなった吉本隆明さんの詩を書き写す作業も始めて、その作業は別の手の音楽をつくる様なことなんだなあ。
本にならないと思っていたが。
「GOZOノート」、「心に刺青をするように」
大震災後、皆さんの気持ちが違う波立ちを起こしてきて、違う色を使います、そういうことに敏感であらざるを得ない様な、日々の仕草の大事さを本になって現れてきました。
心の織物としての本があるんです。
大震災後、日々の仕草の大事さがもう一度本の傍に寄ってきましたね。
77年間生きてくると、言葉にしなければいけない責任が生じます。
言葉が更に裏道を通って間道抜け道を通ってけもの道を通って行くように仕向けて、その言葉を聞こうとしている。
77歳で、歳が歳になってくるとその歳が緩やかさという別のスピードを得てくる、別の色合いを帯びてくる、数字で数えるのではないそうした、なにか薄い剃刀の柔らかい火の様な色がふーっとたってくる、それがもしかすると時間というものかもしれない。