2016年6月17日金曜日

常盤勝範(壺阪寺住職)     ・当たり前の日常を見つめ直す

常盤勝範(壺阪寺住職)     ・当たり前の日常を見つめ直す
西国観音霊場 御本尊の千手観音菩薩は目の病に効くと言われ、目の観音様として古くから信仰されてきました。
明治のころ、沢市お里の夫婦愛を描いた浄瑠璃、壺坂霊験記が大人気となり浪曲歌舞伎の世界でも演じられてきました。
また目の不自由な人たちの老人福祉にいち早く取り組み、昭和36年養護老人ホーム「慈母園」・
を開園しています。
広い境内には本堂をはじめ、三重塔、数多くの石像、季節の花々が咲く山のお寺です。
特に花には眼の不自由な方の為になるべく香りの有る花を選んで植えているという事です。

石仏はインドから切り出して、殆どインドの人に彫っていただいたものばかりです。
壺坂霊験記 夫は小さいころに疱瘡をわずらって目が見えなかった沢市
妻お里は眼を開眼させたくて、千日間お参りしていた。
沢市は浮気をしてるのだろうと、問いただすが、観音様にお祈りしていたんだというと、済まなかったと言って謝り、迷惑をかけたと悟る。
連れ添って観音さまにお願いして、3日間沢市はお願いすると言って妻を帰して、迷惑になると谷底に身をなげる。
お里は戻ってくるが、沢市の姿を見て、お里も身を投げる。
二人の思いやりに免じて、二人の命を助けて眼を開いてやるという観音様のお告げがあり、その通りになる。

養護老人ホーム「慈母園」 目の不自由な老人の人達専門の施設。昭和36年に開園。
現在50名、部屋も50あります。
私は昭和37年生まれで、小さいころから目の不自由な人とのお付き合いはありました。
父から眼を見えることに感謝しないといけないことを言われました。
父は常盤勝憲、人を考えないといけないと父からよく言われました。
目が見えないハンセン病のかたが、指が損壊していて指を使えないので、舌を使って血が滲んでいても一生懸命点字を勉強している姿を見て、せめてお手伝いができるようではないかと思い、社会事業を模索して、その一つが「慈母園」という結果だったと思います。
ハンセン病の方との交流もありました。
父はインドのハンセン病の救済活動にたいしても、昭和40年ごろからインドに頻繁に行くようになりました。
その御縁で石の仕事も始まりました。
最高は高さ20mの観音像があります。
インドのハンセン病の救済活動がはじまり、インドとのご縁が熟成していった結果がこの大量の石仏なんでしょうか。

インドとの交流は続けています。
インドへの社会事業もしていて学校にいけない人達の奨学金のこと、障害を持っている方への奉仕、学校も経営しているので、色んな話などしながらやっています。
日本は大乗仏教、インドで仏教は殆どない状況です。
インドでは絶対食べてはいけない食物がある、日本はおおらかになり過ぎているのかもしれない。
インドでは戒律が厳しい。
27年間住職をしてきました。
感謝という事を常に父は言っていました。
父は癌になって、いろいろ境遇を受けて色んな機会を与えられている事も感謝、いろいろな苦しみが判ったことも感謝と言っていました。(58歳で父は亡くなる)
人を直接救う事にたいして凄く力を込めていた事業ばっかりでした。
「天知る地知る我知る」 父は周りからの評価でなく、自分が一番よく知っていると言っていました。

父は冷静に見ていたと思います。
ハンセン病の後方支援などもよく考えていました。
僧侶としての社会事業なんだなあという事をこの頃よく考えるようになりました。
黒子になる、黒子がいないと舞台が成り立たない。
ものを与えればそのものに色んな心が宿る時代ではなくなって、タイミングとか、いろいろなやり方が複雑化していると思う。
今の社会には共通項が無い様な時代だと思います。
ものによる支援は限界に来ている様な気がして、違う処方箋を考えていかないと社会不安はどんどん助長されるようにも思います。
「今日を迎えて有難う」という一言を自分に言えるか言えないのか、考えていかなければいけない時代になってきた様な気がします。
人を思いやる心を芽生えてくることを期待していけないかも知れません。
人間とは脆いものだと自分自身経験したので、何か心の余裕を持つべきだと思います。