犬塚 弘(クレイジーキャッツ・ベーシスト・俳優) ・第二の人生は舞台から(1)
昭和4年東京都大森生まれ サラリーマン家庭に生まれた犬塚さんはジャズにあこがれて10代の頃ハワイアンバンドを作りました。
昭和30年にはハナ肇さんとジャズバンドを作り、渡辺プロダクション専属のタレント第一号になります。
日本の経済成長と共にクレージーキャッツはコミックバンドとしてTV、映画、舞台にと大活躍します。
犬塚さんをはじめ、ハナ肇、植木等、谷啓等、メンバーはいずれも当時ジャズの世界では名の知られた人達でした。
昭和61年57歳の時犬塚さんは新たな人生を切り開こうと芝居の世界に飛び込む決断をします。
犬塚さんがひたむきに役に取り込む演技が評価されたこともありますが、セリフが人物の内面から出てくるまでじっくり稽古する事、若い役者たちと熱っぽく語りあう事等クレージーキャッツの時代とは一味違う喜びを感じたからだと言います。
87歳 ふっくらとした身体。
熱海に住むことになり、一切辞めたが、NHK、民間放送も来たりした。
親父からはどんなに偉くなろうが、威張るな、皆国民は平等だと小さいころから言われた。
父は商社マンでロンドン、インドに滞在、外国のジャズのレコードなどを集めていて、子供の頃手廻しの蓄音機でレコードを聞いていた。
当時ウクレレとギターがあった。
終戦後食べものが無くて辛かった、しかし家には人が結構いっぱい集まってきていた。
松下村塾の様な所があるからという事で文化学院に行ったら女ばっかりで、2/3が女だった、
西村伊作という人が学校を始めたという事。
ハワイアンバンドを作ろうという事で、兄から言われて、5人位で、銀座のオーディションを受け、受かってナイトクラブでやる様になる。
個人レッスンを受ける様になるが、スタルタ教育だった。
5000円の月給だったが、スカウトされて違うところに行ったら、1年たたないうちに又スカウトとされて、5回スカウトされて、萩原哲晶とデューク・オクテットに行く事になり仕事をしていた。
昭和28年(24歳の頃)位にハナ肇さんが来て人気がでる様なバンドを作らないかとの話が来た。
口説かれてやってみようかなという事になり、キューバンキャッツでやる事になる。
面白い植木さんという人がいるという事でひっぱって来て、トロンボーンをやる変わった人がいるという事で引っ張ってきてそれが谷啓で、ほかにピアノなど回りがワーッと騒ぐようなバンドを作ろうという事になる。
3年間売れませんでした。
渡辺プロダクションが作られて、事務所をつくっていた。
原稿用紙をつくって谷啓と喫茶店でネタをかんがえたりしていた。
米軍キャンプを廻ったりして、パントマイムをやって、トロノーンボーンをはずしたり、ドラムで叩きながら移動して、床を叩いたり、マクロフォンを叩いたりして、エヘヘヘヘと笑ったりして、それが受けた。
そうするとクレージー、クレージーと騒いだ(スラングでいかしている、かっこいいという意味だと言われた)それでクレージーキャッツという名前にした。
大阪の舞台でもやる様になったが、最初受けもしなかったが、10日間のうちにこんなバンドはないという事で有名になってくる。
東京のテネシーというジャズ喫茶もやる事になったが、そこで大受けした。
昭和34年フジTV開局クレージーキャッツレギュラー番組「大人のマンガ」がスタートする事になる。
1週間前に三木鮎郎さんとか有名な作家が10人ぐらい集まって、どういう番組を作ろうと会議が始まっていた。
始まって1週間経たないうちに書けないという事でいなくなってきて、若い奴が来たが、それが青島幸雄さんで、杉山幸一さんの同級生で、援助してくれたらしい、そして番組が始まってどんどん有名になった。
無理してセリフを覚えたが、セリフを覚えきれない人がいたりした。
三木のり平さんがセリフを忘れて、生放送で大変なことがあったりした。
ふざけて勝手放題やって繋げたりしていたこともある。
ハナ肇、植木等、谷啓がスターになったが、俺はなだめ役でいいからと言った。
植木等は本当は真面目な人です。
「スーダラ節」 こんな歌は歌えないと植木は怒ったが、お寺の父の前で歌ったらこれは哲学的だ売れるぞと言って、売れないと思っていたが売れてしまった。
谷啓は変人です、人に対して出しゃばったりしない遠慮する人だがやり出したら何するか判らない人です。
所沢で仕事をして帰る時に、暗闇の中成増辺りで自動車を止めて谷啓が出てゆき、谷啓の合図とともに5分後ライトを点けたら、畑の中で素っ裸で踊っていた。
退屈だと思って気を使って楽しませようとやったという事だった。
ドラマをやることになったが、宇野重吉さんとか山田五十鈴さんとかに教えてもらったりして、何か面白かった。
新劇の芝居もやることになり、やったがすごく楽しかった。