梅木信子(医師) ・96歳・現役女医
大正9年大分県生まれの96歳。
兵庫県加古川の女学校を卒業し、23歳の時に靖之さんと出会って、婚約しましたが、結婚式目前の一か月前に戦死してしまいました。
確認裁判をへて、婚姻関係を認められ、靖之さんの慰霊と結婚式を挙げ正式に入籍したのは戦死から 3か月後でした。
軍人遺族の特典という制度を活用して、猛勉強して、東京女子医大に入学しました。
31歳で医師国家試験に合格、大学等で仕事をした後、40歳の時東京都日野市に開院し、地域医療に貢献しました。
2009年89歳の時に医院を閉じて夫との思い出の地、兵庫県神戸市に住まいを移しました。
現在月に2から3回、医師として仕事をしています。
海で散った夫の意志を継ぐため夫の母校神戸大学第一科学部に奨学金を設け、若者を支援しています。
身体の悪いところはないが足が弱ってきました。(家の中は大丈夫)
働きたくないが医者が少なく、困る時だけお手伝いしますと言っています。(今月は5回です)
聴診器を扱うのは得意です。(聴診器と触診を根本的にたたきこまれた)
離れ島に行っても診断できます。
「ひとりは安らぎ感謝のとき」 出版
生まれは九州ですが、1歳の時に引っ越してきて神戸に来ました。
本当の思い出の土地が神戸です。
夫、梅木晴之とは3年間は二人でいろいろなところを歩きました
孫の代まで患者さんを見てきました。
大正昭和平成と生きてきました。
昭和の時代は日本人は誇り持っていました、どんなに貧乏でも自分の力で、足で生きていました。
自分の運命に逆らわなかった、人を見て羨ましがらなかった、身分相応を心得ていました。
子供のころは運動一本槍でした、勉強はしていませんでした。
兄弟は7人で5番目でした。
性格は明るくて人気者でした。
看護師になりたかった、軍国少女に育ってしまいました。
赤十字に入りたかったが、希望者が凄く多く落ちてしまいました。(友達は受かったが20歳ぐらいで戦死してしまった)
1943年 23歳で靖之さんと出会いました。(遠戚)
女の子と歩いていたら、商船学校では歯を折られるほど殴られるような時代でした。
家に来てくれたり、六甲山に行ったり、海辺を二人で離れて歩いていました。
幸せでした。
訃報は10月22日に知りましたが、広報が入った(夫の実家にきた)のはずーっと後です。
結婚式の直前でした。
艦から最後に上陸して来た時に2時間一緒になりました、それが証拠になり、又結婚許可願が出してあり、そういうのが皆証拠になり、裁判所で認定されました。(涙ぐみながら)
結婚しようとする気持ちは当然でしょう、今の人の気持は判りません。
5年間いいなずけでしたもの、あの頃の女の道だと思います。
当時はみんな生活の為に再婚したんだと思います。
猛勉強し、勉強のために予備校にも行きました。
入学試験も物凄い志望者でした。
外科は体力を使うので、女性には無理だと思いました。
精神科に2年いましたが、これは良かったと思います、選んだのは内科です。
あの年代の悪い時期に生まれ合わせて、だけど皆誇りに満ちていました。
明日死んでもいい、いつ死んでもいいと思っているから長生きしているんじゃないですか。
自分で生きようと思っているんじゃないんです、まだこの世の中に何かすることがあると、誰かが置いてくださっているんだと思います。
自然のまま、眠くなったら寝て、お腹がすいたら、食べる、食べたくなかったら何食でも食べない、自然のままに生きています。
農薬使わないで、自分で種を蒔いて楽しみで家庭菜園をやっています。
花も好きです。
料理も全て自分で作って外食はしません、食事をつくることはボケ防止にもなります。
冷蔵庫にあるものをどう利用しようかといつも考えています。
山のものを取りに行きます、歩く事は健康にもつながります。
何十年も一人でいるので寂しくはありません、あの人が一緒に居るから(梅木晴之の写真)、それにいろいろな人も来てくれますし。
一人は自由ですが、姪とか甥とか周りの人が心配してくれる事は悪いなあと思っています。
甥がオーストラリアに来なさいと言うが、まだいますが、最後はオーストラリアかも知れません。
心配する人の為に老人ホームかもしれません。
ここはいいところなので、ここに居たいが皆が心配します。
医者が一人入らないと採血したりする7~8人のグループは出来ないので、頼みに来るので、まだこの世で必要とされているのかなと思います。