2025年3月8日土曜日

吉田玉男(人形浄瑠璃文楽 人形遣い)    ・人ありて、街は生き アンコール 師から受け継いだ芸、次世代へ(初回2024/1/6)

 吉田玉男(人形浄瑠璃文楽 人形遣い)    ・人ありて、街は生き アンコール  師から受け継いだ芸、次世代へ(初回2024/1/6)

2023年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された人形遣いの2代目の吉田玉男さん。 玉男さんは武将や町人などの男役、立ち役の第一人者として文楽を牽引する人形遣いです。   半世紀余りの間人形一筋に歩んできた玉男さんの芸の世界のお話を伺います。

入門してからはほとんど立ち役をやって来ましした。 「奥州安達原」で最初は公家のいでたちで後半は猛々しい侍の姿で迫力のある武将の役。  人形が大きい。 10kg近くあります。最後の15分ぐらいは動き詰めです。   複雑な人間模様でややこしいです。  「曽根崎心中」などでは弱弱しい町人もあり、優男の難しい所もあります。  文七のかしらを持ってきましたが、眉毛が上下に、目が左右に動くようになっていていろいろ表情が変わります。   3人使いでおこなっていて、入門当初は足遣いから始ります。(約10年間)  女方には足はないんです。(昔は女性は足を見せないように歩いた。)  真ん中にいるのが足遣い、右側(お客側から見て)が左遣い、3人で毎回やっています。 

中学校2年の時に人形遣いの吉田玉昇さんに勧誘され、手伝いをするようになって文楽に興味を持つようになる。  高校にはいかずに初代吉田玉男に弟子入りしました。(昭和43年)  昭和44年に初めての役に付きました。  『吉田玉女』(よしだ・たまめ)を名乗りました。  足遣いは10年ぐらいやりました。(左遣いなども覚えるが)  次に左遣いで左手を動かします。 右手でもって左手は空くので、小道具、扇子などを懐から出したりします。  足遣いの時にも子供の人形を使わせてもらって、主遣いもさせていただきました。  主遣いが一番楽しいです。  千秋楽の次の日から4日間は勉強会と言う形で主遣いをやらせてもらいました。   

役柄の心情,性根は台本をよく読まないと駄目ですね。  弟子は先代に似せないといけないですね。  先代とは35年ぐらい一緒にいました。  3人で扱うようになったから300年近くなります。  3人を合すというのは主遣いの呼吸で手も足も出るという事です。 主遣いからサインが出ます。  先代の感じを入れて僕の感じも入れる様には心がけています。  後継者のことが問題になっています。 足遣いも間が8年近く空いています。 自分の芸、後進の指導も行わなければいけないし、新しい人にも来ていただかなかればいけないと思っています。  





  

2025年3月6日木曜日

尾畠春夫(ボランティア)         ・ボランティアが、生きる証し

 尾畠春夫(ボランティア)         ・ボランティアが、生きる証し

尾畠春夫さんは85歳。 大分県出身で7人兄弟の4番目として育ち、小学校5年生の時に県内の農家に奉公にでて、中学まで厳しい環境で育ちました。  中学卒業後別府、山口、神戸の鮮魚店で修業を行い、東京でのとび職の経験を経て、28歳の時に故郷大分に戻り自分の鮮魚店を開業します。  65歳で切り盛りし引退、そこから尾畑さんの本格的なボランティア活動が始まります。 山口県の山中で2歳児を発見して全国的に注目され、東日本大震災の時は500日間を車中泊で過ごし写真や遺品などを捜して綺麗にして遺族に渡す「思い出探し隊」の隊長として活躍しました。  その後も熊本地震や九州北部豪雨などの際にいち早く災害現場に駆けつけました。  移動の際の車のガソリン代も自己負担し、対価を求めないのが真のボランティアであるとして、お礼は一切受けとらず被災者の支援にあたっています。 ボランティアを通して活動する喜びや遣り甲斐について伺いました。

去年は能登半島地震に行きました。  今は別府湾のペットボトルなど人工物の回収をしています。 海の魚が喜んでくれるのかなあと思ってやっています。 今でも4トン車に山盛り一杯になっています。  50歳から故郷の豊後富士でボランティアを始めています。  35年ぐらいになります。  登山道の整備、人命に関わることなど。  65歳からは一般の災害ボランティアを始めました。  東日本大震災の17日後に行き約500日ボランティアしました。  大変だなあと思ったことは一切ないです。 

昭和14年大分県国東半島で生まれる。 母親が41歳で亡くなる。  小学校5年生で農家に奉公に出される。(一番ご飯を食べるため)  朝昼晩茶碗に一杯のご飯と味噌汁一杯、沢庵2切だけだった。  お腹がすき過ぎて馬、牛の餌(麦、豆)を炊きだして食べました。 姉から魚屋になることを薦められて、中学卒業後、魚屋で3年間働くことにしました。 その後下関の魚屋で3年、神戸で4年。 その後とび職として東京で働きました。  とび職の仕事がその後のボランティア活動の役に立ちました。  ボランティアをしてあげるなんて思った事は無く、させてもらっていると思っています。  自分に正直にやっているだけです。 

東日本大震災の時は「思い出探し隊」の隊長として活動しました。  写真がメインでした。 お金に関してはたとえ1円でも二人以上で処理するようにしました。  写真を洗って乾燥して、展示して自由に持って帰れるようにしました。  涙を流しながら「ありがとう」と言われると身体が震えます。 二度と日本では起こって欲しくないと思いました。  車中泊は過酷なんてことは承知の上です。  川の水を汲んできてラーメン作ったり、飲んだりして、ご飯も携帯用のご飯に水をかけて紫蘇をかけて食べていました。  どうしても食べて欲しいと、差し入れを頂いて号泣しました。  

ペットボトルの回収は危険が伴います。  ボランティアは自己責任だと、基本中の基本だと思っています。  今まで受けた恩が山ほどあるので、止めようと思ったことは一回もないです。  この世に生まれ出たものにはなんでも命があります、針一本でも。

鹿児島から宗谷岬まで日本縦断しましたが、徒歩で330km歩きました。 92日間かかりました。 「掛けた情けは水に流せ、受けた恩は身に刻め」と言う言葉が有ります。 私は常にそれを心に刻んでいて、恩に着せることは絶対駄目だと思っています。  一つだけ貰いたいものがあると冗談で言うんです。 1+1はと聞くんです。 「にー」と答えが来ます。 「お礼の分を頂きました。」といいます。  「にー」と答えてくれた、この笑顔を貰いました。 

これからボランティアをやる人へは「自分の身は自分で守る。」という事です。(自己責任)  そして見返りは求めないことです。  今は右の耳が聞こえない、右の眼が見えない状況です。  来年は夜間中学に行って学びたいという思いがありますが、災害地に行くのが一番で勉強は二番ですね。  「生かすも言葉、殺すも言葉」です。 言葉には気を付けないといけない。  「夢は大きく借金は小さく」



























2025年3月5日水曜日

奥野修司(ノンフィクション作家)     ・認知症になっても気にならない社会を

奥野修司(ノンフィクション作家)     ・認知症になっても気にならない社会を 

奥野修司さんは1948年大阪府生まれ。 立命館大学経済学部卒業、週刊誌の記者として活動後、1994年「小沢一郎覇者の履歴書」でノンフィクション作家としてデビュー、その翌年に「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」で注目されます。 その後2005年「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で第37回大宅壮一ノンフィクション賞第27回講談社ノンフィクション、を受賞されました。  社会問題や医療をテーマにした著作を多数出しています。 認知症の取材に長年取り組み、去年10月に「認知症は病気ではない」を出しました。 

「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で12年、「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」で25年、と長期間取材を行った作品が多い。 「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」の取材ではなかなか取材には応じてくれなかった。 毎年2回ぐらい沖縄にいって話を聞いて、その子供が成人して本土に出てくるまではずっと通っていました。  本にするつもりはなく記録していました。 80年代の末にC型肝炎だという事が判って、医者から後10年だねと言われました。 それで形にしておこうかなと思ったのが「ナツコ 沖縄密貿易の女王」でした。 当時終戦から2,3年の間は全く資料がありませんでした。 資料はアメリカでしかなかった。 ナツコと言う人がいて、当時のおじいちゃん、おばあちゃんはみんな知っていました。   でもしゃべってはくれなかった。  微妙なテーマだと思いました。  ナツコの家族を捜すように言われて、そこから紹介して貰いました。 

ノンフィクションを書こうとは思っていませんでした。  「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」は大宅賞の候補になりましたが、ノンフィクションじゃあないと言われました。  ナツコなどは取材すればするほど面白いですね。  全部知りたいという思いがあるんですね。  家族をノンフィクションで描くという事はなかった。  信頼して本当のことをしゃべってもらうことが重要になって来ます。  そのためには時間がかかります。  沖縄の男性は特にしゃべらない。  取材が勝負ですね。 

去年10月に「認知症は病気ではない」を出しました。  取材のきっかけになったのは兄が認知症になったことです。  2013年に亡くなる。  丹野さんの取材後、若年性認知症の人を15年ぐらいインタビューしました。  若年性認知症の人は全国に3万5000にぐらいしかいないです。  高齢者の認知症は数百万人です。 出雲市にあった「小山のおうち」というところを知って、そこから高齢者の認知症について話を聞きました。  要介護4,5ぐらいでした。  直ぐ忘れるので、話が2分ぐらいしか持ちませんでした。  敬子さんと言う人を手を繋いであちこちいって帰ってきて、おやつの時間になったときに敬子さんが「今日は楽しかったねえ」と言ったんです。  その人は1分ぐらいしか記憶の持たない人でしたが、3,4時間前のことをしゃべったんです。  感情は僕らと同じように覚えているんです。   嫌なことを言うと怒られたというんです。  嫌なことはそれが重なって記憶に残るんです。  何か魂胆があるのではないかと考えたりするんです。   

家族が認知症の人がどう思って売るのか、知ることが難しい。  介護士とか慣れている人に聞いて欲しいと頼んだ方がいいですね。  重度の認知症になって来ると、話を聞こうという事は無くなって来る。  認知症の心のうちは孤独と不安ですね。  孤独はもう話し掛けてもしょうがないという、社会的孤独ですね。   家族だけが接触する対象ですが、家族が話かけないと孤独感を味わう事になる。  記憶がどんどん衰えていくことは自分でわかっています。  記憶が消えてゆくと自分が消えてゆくような不安を感じる。 家族と認知症の人との関係性の問題です。 家族から変わるしかない。  ちゃんと聞いてあげる。  一人暮らしの方が元気な人が多いです。(元々一人なので人間関係がもつれることがない) 

料理を作ることは難しい。  どう作るか、計画を立てて、手順があって、同時に複数の作業をしないといけない。  女性は料理が出来なくなってショックを受ける人が多い。  認知症の人に言われましたが、「常にメモを持っていろ。」といわれました。 

毎日3,4km走ったり歩いたりしています。  歩けなくなるとまずいです。  健康を保つのには食事と運動だと言わわれ、実行しています。  今日本の農業は大転換しています。  今の米騒動もその一環なんです。 それを系統だてて説明していない。  人物を描きたいと思っています。 日劇のダンシングチームの一人を捉えて、戦前の生活を描きたいと思っています。 







 






2025年3月4日火曜日

米田穣(東京大学総合研究博物館 教授)   ・人類学と考古学 その境を越えて“科学”する

 米田穣(東京大学総合研究博物館 教授)   ・人類学と考古学 その境を越えて“科学”する

米田穣さんは現在55歳。 東京大学総合研究博物館 教授で人類学者ですが、科学的な手法を開拓し考古学の分野でも多くの業績を上げています。 米田さんは考古学者と共同で発掘調査にも加わり、同位体分析と言う科学的な手法を用い、人骨のほか縄文土器に付いたおこげからその年代を正確に測定し、食事内容やと調理法、更には暮らし方などもあきらかにしまた。   こうした業績が認められ2019年には著名な考古学者濱田青陵の名を冠した賞を受賞しました。 人類学や考古学のジャンルを越えて新たに考古科学の世界を切り開こうという米田さんに考古学者との共同作業から得たもの、今後の夢などを語ってもらいます。

私が中学生の時に理科を担当して下さった先生が、大学で霊長類の研究をしていました。  聞いて霊長類の研究は面白いと思いました。 霊長類の研究は京都大学が長い歴史を持っています。  東京大学では生物学科に人類学という専門分野が入っています。  人類学の中に霊長類学があります。  ネアンデルタール人の研究をしている先生がいて、発掘調査に参加してほしいとお願いしました。  

我々の祖先はアフリカで誕生しました。 およそ700万年前ぐらいにアフリカから人類の化石が見つかっています。  人類の生物学的定義は直立して二足歩行をするというのが大きな特徴となっています。  東アフリカでは山脈が形成されたことによって乾燥した草原が広がって行きました。 二足歩行の進化と言うのは、草原と言う新しい環境が現れたことと関係するのではないかと長らくかんがえられてきました。  2000年頃にエチオピアで発見されたアルディピテクスという非常に古い化石が報告されました。 二足歩行していたことが判っています。 面白いのは一緒に発掘された動物の化石はほとんど森に棲んでいる動物だったという事です。 草原ではなく森が多く残っている段階で祖先は二足歩行を始めたという事が新たに判りました。  

二足歩行を始めた時と消化器官などが進化したタイミングは、おそらく数百万年ずれていて、二足歩行とは直接関係ないという事が判っています。 でも新たなサバンナ環境になれるという事は大きな変化でした。  動物の死体を食べることは人類の祖先(猿人、原人)は始めたと考えられます。  草食ではあったが200万年ぐらいあとからサバンナという環境で動物の肉も食べるようになった。 魚などを食べるようになったのはもっと新しくて10万年前とか、数万年前のホモサピエンスになって、本格的に食べるようになったと考えられています。  環境に合わせていろんなものを食べることが出来たという特徴があります。 

私は生物としての人がどのような環境に適応するかと言うのを、主に縄文時代の骨を使った研究を行ってきました。  考古学者に誘われて一緒に研究を知るようになりました。   縄文土器は縄文時代の遺跡からは必ず出土すると言ってもいいくらい広く用いられてきた土器です。  土器のおこげも材料の特徴が、同位体という分析法を応用してみると、元の材料を或る程度推測することができる。  食べ物の傾向がおこげで知ることが出来ます。 人骨は賛成の土壌に埋められてしまうと溶けてしまうので見つかる先が限られてしまう。  おこげだと広い範囲で分析が可能となる。  

精製土器、粗製土器とに大きく分かれます。 精製土器はお祭りなどのために特別に作った土器と考えられてきました。 粗製土器は調理する目的によって精製土器とは使い分けてきたと思われる。  粗製土器は肉を調理する場合に用いられていたが、植物だけを加熱するという事にも用いられています。  精製土器は肉と植物を併せて調理するという目的に使われていた。  用途によって使い分けられていることを知ることができました。  ドングリのあく抜きなどにも粗製土器が使われていたことが確認できています。 

縄文時代にどんな調理法があったのかという事はほとんど研究されていない。 北海道と沖縄は魚類を沢山食べる。  本州周辺では陸の食べ物と海、湖の食べ物を組み合わせるといったことが特徴になっています。  意外と地域差はなかったです。(沿岸と内陸、東北と関東とか) 遺跡ごとに違う事が判りました。  遺跡周辺でとれるものを最大限に活用するのが縄文時代の特徴になります。  

縄文時代は植物を栽培する農法、動物を飼いならす牧畜はほとんどないという風に考えられています。 大きな豆などが見つかることがありますが、もしかすると縄文人が育てていたのではないかと考える研究者もいます。 弥生時代には畠の跡が見つかったり、専用の農工具が見つかったりしています。  縄文時代の後期には雑穀も見つかっています。  渡来人がもたらした雑穀を栽培していたのではないかと言う証拠を見つけることができました。 長野県の人骨から確認できました。(人骨に残されている炭素の同位体から、雑穀を食べていたことが判明) 雑穀を主食としてはしていなくて1割程度。  農耕へは連続的なものであったように思います。  

福井県三方湖の鳥浜貝塚は栗林が近くにあって、湖には沢山の魚介類がいる。  青森県の三内丸山遺跡は昔は海に近かったと言われている。  栗林は重要な資源だったと思います。  栗林が長く維持できるように管理していたものと思われます。 

濱田青陵の名を冠した賞を受賞しました。   考古学では分析的な手法を応用する手法が広がってきています。  遺物を次の世代に残す保存科学も重要ですが、分析によって得られた知識を、過去に暮らしていた人たちの生活、社会を理解するために利用する視点は、弱かったと思います。 考古学者の情報と分析して得られる情報の価値は同じだと思うので、両者を組み合わせてより過去のことを理解する科学的研究が出来るのではないかと思います。 科学的手法を考古学に生かす考古科学を展開できればなあと思っています。 自然と調和した暮らし方の考え方自体は、もしかすると争いが少なかった背景にあるのかもしれません。





































2025年3月1日土曜日

中村宣郎(義肢装具メーカー)       ・人も街も輝かせたい

 中村宣郎(義肢装具メーカー)       ・人も街も輝かせたい

 中村宣郎さんの会社は山間にありながら高い技術力で世界に知られるとともに、古民家の再生など地元の街つくりにも深くかかわり、石見銀山の世界遺産登録に貢献しました。 病気やけがで身体の機能を失った人たちにどう向きあっているのか、そして故郷街つくりへの思いを伺いました。 

義肢と言うと義足義手のことになります。  装具は骨折,じん帯?損傷の為に用いられる装具になります。  サポーター、コルセットなどもそうです。  オーダーメイドで作るものと既製品と両方あります。  技師装具国家資格があります。  1年目に糖尿病で片足切断をした広島の方がいました。(80代)   納品の際に四苦八苦しました。  患者さんからも「自分も努力する。」という言葉をかけていただきました。 歩けるようになって頂けました。  

中村ブレイス(株)は島根県大田市大森町(人口約400人)石見銀山のふもとの山間にあります。  父であり現会長の中村敏郎?が生まれ育った町でスタートしました。  シリコンゴムを使って靴の中敷きを作って、膝の治療用とか偏平足の治療用で製品化して、徐々に認められていきました。  機能的な製品作りがメインでしたが、アメリカでは人工乳房を提供していて、日本でも提供できないかという事がスタートになりました。 芸術の概念を取り入れながら進化していきました。  女性の手などは材料を変えて爪の部分にはマニュキアが塗れるような工夫もしています。  

アスリートへの支援、元パラリンピック水泳一ノ瀬メイ選手、車椅子テニスの三木拓也選手などに協力しました。  三木拓也選手はパリパラリンピックのダブルスで銀メダルを獲得しました。  サポーター、靴の中敷きなどを提供してきました。 中敷きも1,2㎜の感覚の違いを指摘されました。 要望を受け入れて作り込んで行きました。  助けるというのではなく、支えるという気持ちをもって対応しています。 

65軒の古民家を再生してきました。  街は文化的な側面が大きいと思います。  2024年3月までの12年間に転入、転出の差し引いた数が47世帯になります。 出生数が50人になります。  年間出生数が4,2人という事になります。(人口約400人)  父の思いが実を結んだのが、2007年の石見銀山の世界遺産登録でした。 鉱山の跡だけではなくて街並みを含めてその価値が認められて世界遺産になりました。  大逆転の決定だったのでお祝いの為のくす玉とか提灯などはほとんど用意していませんでした。     

一時期オーバーツーリズムがありましたが、住民同士が決めた大森町住民憲章があります。 「この町には暮らしがあります。 私たちの暮らしがあるからこそ、世界に誇れる良い町なのです。」  今は落ちついてきました。  町内に住んでいる住民と新たに来る人たちとの価値観の共有、すり合わせをすることが重要になって来ると思います。  今後もいいものつくりをしていくことで新たな若い人たちに来てもらうための最低限必要なことだと思います。  魅力を発信していきたい。