倉科由加子(障害者支援施設 施設長) ・NHK障害福祉賞受賞者に聞く 千代子さんと私
「千代子さんと私」は第59回NHK障害福祉賞 最優秀受賞作品。 NHK障害福祉賞は障害の有る人自身の体験記録ですとか、福祉の分野での優れた実践記録に贈られるものです。 倉科さんは愛知県住在の61歳。 働き始めた入所施設で重度の障害がありストレッチャーで生活する千代子さんに出会って、その暮らしを最後まで支えました。 苦難を受け入れて多くの人に慕われた彼女のようになれたら、という思いを「千代子さんと私」と言うタイトルで綴りました。
書き出しし部分 出会い
「坊主頭のその人は満面のほほえみで私を迎えてくれた。 障害の有る方=車椅子に乗っている方で、という認識しかなかった私にとってその人との出会いは、当初衝撃的だった。 ストレッチャー型の車椅子にうつぶせに寝た姿勢からグイっと顔を持ち上げ汗だくの笑顔から自己紹介をしてくれるのだが、言語障害もあり語尾が聞き取れない。 よくよく周囲のやりとりを聞いているうち、その人はみんなから千代ちゃんと呼ばれていることがわかった。 それが千代子さんと私の出会いである。」
ストレッチャー型の車椅子にうつぶせに寝た姿勢から、この人一体どうやってご飯を食べるんだろう、どうやっておトイレに行くんだろうと、いろんな疑問がぐるぐると湧いてきてしまいました。 ニコニコ笑っているという姿にも衝撃を受けました。 長いベッドのような車椅子にうつぶせの姿勢になって、顔は、話をする時には首を持ち上げてお話をするので大変力の要ることだったろうと思います。 出会った時は千代子さんは30代でした。(1985年)
テレビで障害者施設の番組を見て、何となく障害の施設の役に立ちたいと思いました。 福祉大学に進んでこの施設を選んで千代子さんと出会いました。 当時は50人が暮らしていました。 重度の障害の有る方たちが沢山いました。 目が見えない、足が動かない、言葉が話せない、と言った人たちが元気に暮らしているところに飛び込みました。 「住人さん」という呼び方をしていました。
私が入る数年前から千代子さんは入所していました。 お母さんと一緒に名古屋で暮らしていたそうです。 脳性まひの障害をかかえて生まれた千代子さんを乳母車に乗せて、いろいろなところに連れていかれたと聞いています。 高齢になりお母さんが入院して、こちらの施設に入所したという事です。 千代子さんの短歌の中にお母さんのことが良く登場していました。
「春色の母の形見の服を着るもったいないと母は着ぬまま」 千代子
「思い出す私の好きなイチジクを貧しい中にも買いくれし母」 千代子
愛情深く育てられて来たから、千代子さんの優しさが千代子さんの中に育ったのかなあと思います。
千代子さんは石原裕次郎さん、里見浩太朗さんとかが好きだったので御園座に出掛けたり、細川たかしさんとか演歌のコンサートに一緒に行ったりしました。 大好きな寿司を食べに行ったり外出が好きな方でした。 親指にみたない鮒に餌をやって30cmぐらいまで水槽で育てて、愛ちゃんという名前を付けて愛情を注いで、なんにでも愛情を注いでしまうという方だったと思います。 誰かに対しても怒るという事のない方で、怒る時は中日ドラゴンズが負けた時ぐらいです。
千代子さんは聖人君子の様に思えてしまうかもしれませんが、あわてんぼうで、お節介で、おっちょこちょいで、出たがりで、どこにでもいる明るい一人の女性だったと思っています。 古い写真を見ると何でも真剣に一生懸命思い切り楽しんでいる、そんな時間を共有させてもらって幸せだったなあと思います。
「この年で恋をしている恥ずかしいでも恋しているよんじゅうごさい」 千代子 私が聞き取ってノートに書いて、短歌の会に参加することにしました。 ストレッチャー型のトイレで1時間ぐらい一人になった時に作っていたようです。
「あの人はいきなに住む王子様私は恋の歌作る姫」 千代子 あの人と言うのはショートステイしていた方で、月に一回こちらに泊るという利用の仕方をしていました。 会えない時には電話をしてお付き合いしていました。 あの人と言う方は昨年末に亡くなられました。
お風呂、トイレなどの手助けをすること自体は大変という事は思わなかったです。
倉科さんの手記より心境の変化も見られる。
「走り出したばかりの私にとっては、大変が楽しいを上回るものだったが、春夏秋冬24時間365日終わりがない繰り返しの中で、数年が経った頃にはこの仕事への遣り甲斐に迷いが生じる様にもなっていた。」
今思うと、身体的疲労が蓄積されていたのかなあと思います。 住人さんたちの暮らしを支えるのが私たちの仕事なので、私だからできる仕事もあると思ったことも、自分がここにいる意味みたいなものを見つけたことになると思います。 時々落ち込んだり、やったみたいなことがあったり、やってきて気が付いたら今です。 40年近くやってきましたが、若い頃には旅立ちに立ち会わせて頂いた時には、ただただお別れするの悲しかったですが、自分が歳を重ねてきて、人生みたいなことを考えてきた時に、人が生きてきて亡くなるところを住人さんが身をもって教えてくれる、その時頂く感動は忘れられない。 そういった事が私がここに居続けている一つの理由なのかもしれません。
千代子さんが昨日までは元気に過ごしていましたが、その日の朝、声を掛けてもぼんやりした答えしかかえってこなかった。 車に乗せて病院に行きました。 入院することになりました。 呼吸機能の限界を迎えた様でした。 頑張って生きてきたのでいい最後だったのかなと思います。
グループホームが出来ると言うと、千代子さんは手をあげました。(60歳) グループホームと施設との往来の生活になりましたが、買い物をしたり、子供たちと仲良くなってクリスマスにプレゼントをあげたり、暮らしの幅を広げて元気に過ごしていました。 ホームと施設について点数を聞くと100点だと言ってくれました。 お母さんと暮らしていた大変な時期について点数を聞いてみたら、ちょっと間をおいてやはり100点と言いました。 千代子さんからはこの100点話は、人としてこうやって生きて行きなさいよと、教えてもらった一つだと思います。
「新人職員だったころ、どうしても星が観たいと言われて、こっそり外につれ出した夜勤の思い出を語る人、外出先で約束したビールの本数なんか無視して思いきり飲んでいい気分だった千代子さんの思い出を語る人、皆が自分と千代子さんの温かい思い出やエピソードを持ていて、その場所が温かい笑いに包まれた。 生前の千代子さんを知らない葬儀会場の方も、「この方は凄い方ですねえ。 この方の財産は人なんですね。」と言われた。 私もこういう生き方をしたいと改めて思った。」
お別れの場面に駆けつけたくなる人だったという事をお知らせで聞くのではなく、その場所にお別れに来る人がいろいろなエピソードをもって、そこに駆けつけて下さることの凄さですね。
「私は千代子さんが挑戦だと言って地域移行したのと同じ年齢になった。 障害がある人の役に立ちたいという最初の夢は千代子さんとの出会いによって、修正された。」
弱い人を助けたり、私が何かを与えたりする一方向の思い上がりに近い方だったことが、千代子さんやほかの住人さんたちとの出会いによって、早々に気付かされました。 自分が持てる力を最大限に活用して人生を謳歌する千代子さんたちは、全然弱くないと思います。 お互いの力が重なってこそ生み出されるものがあるという事も千代子さんたちから頂いたことです。