奥野修司(ノンフィクション作家) ・認知症になっても気にならない社会を
奥野修司さんは1948年大阪府生まれ。 立命館大学経済学部卒業、週刊誌の記者として活動後、1994年「小沢一郎覇者の履歴書」でノンフィクション作家としてデビュー、その翌年に「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」で注目されます。 その後2005年「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で第37回大宅壮一ノンフィクション賞、第27回講談社ノンフィクション、を受賞されました。 社会問題や医療をテーマにした著作を多数出しています。 認知症の取材に長年取り組み、去年10月に「認知症は病気ではない」を出しました。
「ナツコ 沖縄密貿易の女王」で12年、「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」で25年、と長期間取材を行った作品が多い。 「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」の取材ではなかなか取材には応じてくれなかった。 毎年2回ぐらい沖縄にいって話を聞いて、その子供が成人して本土に出てくるまではずっと通っていました。 本にするつもりはなく記録していました。 80年代の末にC型肝炎だという事が判って、医者から後10年だねと言われました。 それで形にしておこうかなと思ったのが「ナツコ 沖縄密貿易の女王」でした。 当時終戦から2,3年の間は全く資料がありませんでした。 資料はアメリカでしかなかった。 ナツコと言う人がいて、当時のおじいちゃん、おばあちゃんはみんな知っていました。 でもしゃべってはくれなかった。 微妙なテーマだと思いました。 ナツコの家族を捜すように言われて、そこから紹介して貰いました。
ノンフィクションを書こうとは思っていませんでした。 「ねじれた絆―赤ちゃん取り違え事件の十七年」は大宅賞の候補になりましたが、ノンフィクションじゃあないと言われました。 ナツコなどは取材すればするほど面白いですね。 全部知りたいという思いがあるんですね。 家族をノンフィクションで描くという事はなかった。 信頼して本当のことをしゃべってもらうことが重要になって来ます。 そのためには時間がかかります。 沖縄の男性は特にしゃべらない。 取材が勝負ですね。
去年10月に「認知症は病気ではない」を出しました。 取材のきっかけになったのは兄が認知症になったことです。 2013年に亡くなる。 丹野さんの取材後、若年性認知症の人を15年ぐらいインタビューしました。 若年性認知症の人は全国に3万5000にぐらいしかいないです。 高齢者の認知症は数百万人です。 出雲市にあった「小山のおうち」というところを知って、そこから高齢者の認知症について話を聞きました。 要介護4,5ぐらいでした。 直ぐ忘れるので、話が2分ぐらいしか持ちませんでした。 敬子さんと言う人を手を繋いであちこちいって帰ってきて、おやつの時間になったときに敬子さんが「今日は楽しかったねえ」と言ったんです。 その人は1分ぐらいしか記憶の持たない人でしたが、3,4時間前のことをしゃべったんです。 感情は僕らと同じように覚えているんです。 嫌なことを言うと怒られたというんです。 嫌なことはそれが重なって記憶に残るんです。 何か魂胆があるのではないかと考えたりするんです。
家族が認知症の人がどう思って売るのか、知ることが難しい。 介護士とか慣れている人に聞いて欲しいと頼んだ方がいいですね。 重度の認知症になって来ると、話を聞こうという事は無くなって来る。 認知症の心のうちは孤独と不安ですね。 孤独はもう話し掛けてもしょうがないという、社会的孤独ですね。 家族だけが接触する対象ですが、家族が話かけないと孤独感を味わう事になる。 記憶がどんどん衰えていくことは自分でわかっています。 記憶が消えてゆくと自分が消えてゆくような不安を感じる。 家族と認知症の人との関係性の問題です。 家族から変わるしかない。 ちゃんと聞いてあげる。 一人暮らしの方が元気な人が多いです。(元々一人なので人間関係がもつれることがない)
料理を作ることは難しい。 どう作るか、計画を立てて、手順があって、同時に複数の作業をしないといけない。 女性は料理が出来なくなってショックを受ける人が多い。 認知症の人に言われましたが、「常にメモを持っていろ。」といわれました。
毎日3,4km走ったり歩いたりしています。 歩けなくなるとまずいです。 健康を保つのには食事と運動だと言わわれ、実行しています。 今日本の農業は大転換しています。 今の米騒動もその一環なんです。 それを系統だてて説明していない。 人物を描きたいと思っています。 日劇のダンシングチームの一人を捉えて、戦前の生活を描きたいと思っています。