尾畠春夫(ボランティア) ・ボランティアが、生きる証し
尾畠春夫さんは85歳。 大分県出身で7人兄弟の4番目として育ち、小学校5年生の時に県内の農家に奉公にでて、中学まで厳しい環境で育ちました。 中学卒業後別府、山口、神戸の鮮魚店で修業を行い、東京でのとび職の経験を経て、28歳の時に故郷大分に戻り自分の鮮魚店を開業します。 65歳で切り盛りし引退、そこから尾畑さんの本格的なボランティア活動が始まります。 山口県の山中で2歳児を発見して全国的に注目され、東日本大震災の時は500日間を車中泊で過ごし写真や遺品などを捜して綺麗にして遺族に渡す「思い出探し隊」の隊長として活躍しました。 その後も熊本地震や九州北部豪雨などの際にいち早く災害現場に駆けつけました。 移動の際の車のガソリン代も自己負担し、対価を求めないのが真のボランティアであるとして、お礼は一切受けとらず被災者の支援にあたっています。 ボランティアを通して活動する喜びや遣り甲斐について伺いました。
去年は能登半島地震に行きました。 今は別府湾のペットボトルなど人工物の回収をしています。 海の魚が喜んでくれるのかなあと思ってやっています。 今でも4トン車に山盛り一杯になっています。 50歳から故郷の豊後富士でボランティアを始めています。 35年ぐらいになります。 登山道の整備、人命に関わることなど。 65歳からは一般の災害ボランティアを始めました。 東日本大震災の17日後に行き約500日ボランティアしました。 大変だなあと思ったことは一切ないです。
昭和14年大分県国東半島で生まれる。 母親が41歳で亡くなる。 小学校5年生で農家に奉公に出される。(一番ご飯を食べるため) 朝昼晩茶碗に一杯のご飯と味噌汁一杯、沢庵2切だけだった。 お腹がすき過ぎて馬、牛の餌(麦、豆)を炊きだして食べました。 姉から魚屋になることを薦められて、中学卒業後、魚屋で3年間働くことにしました。 その後下関の魚屋で3年、神戸で4年。 その後とび職として東京で働きました。 とび職の仕事がその後のボランティア活動の役に立ちました。 ボランティアをしてあげるなんて思った事は無く、させてもらっていると思っています。 自分に正直にやっているだけです。
東日本大震災の時は「思い出探し隊」の隊長として活動しました。 写真がメインでした。 お金に関してはたとえ1円でも二人以上で処理するようにしました。 写真を洗って乾燥して、展示して自由に持って帰れるようにしました。 涙を流しながら「ありがとう」と言われると身体が震えます。 二度と日本では起こって欲しくないと思いました。 車中泊は過酷なんてことは承知の上です。 川の水を汲んできてラーメン作ったり、飲んだりして、ご飯も携帯用のご飯に水をかけて紫蘇をかけて食べていました。 どうしても食べて欲しいと、差し入れを頂いて号泣しました。
ペットボトルの回収は危険が伴います。 ボランティアは自己責任だと、基本中の基本だと思っています。 今まで受けた恩が山ほどあるので、止めようと思ったことは一回もないです。 この世に生まれ出たものにはなんでも命があります、針一本でも。
鹿児島から宗谷岬まで日本縦断しましたが、徒歩で330km歩きました。 92日間かかりました。 「掛けた情けは水に流せ、受けた恩は身に刻め」と言う言葉が有ります。 私は常にそれを心に刻んでいて、恩に着せることは絶対駄目だと思っています。 一つだけ貰いたいものがあると冗談で言うんです。 1+1はと聞くんです。 「にー」と答えが来ます。 「お礼の分を頂きました。」といいます。 「にー」と答えてくれた、この笑顔を貰いました。
これからボランティアをやる人へは「自分の身は自分で守る。」という事です。(自己責任) そして見返りは求めないことです。 今は右の耳が聞こえない、右の眼が見えない状況です。 来年は夜間中学に行って学びたいという思いがありますが、災害地に行くのが一番で勉強は二番ですね。 「生かすも言葉、殺すも言葉」です。 言葉には気を付けないといけない。 「夢は大きく借金は小さく」