「俺は詩によって名をなそうと思いながら進んで詩についたり、求めて詩友と交わって切磋琢磨に務めたりすることをしなかった。
己のたまに有らざることを恐れるがゆえに、あえて刻苦して磨こうともせず、益々己の内なる臆病な自尊心を飼い太らせる結果になった。
この尊大な羞恥心が猛獣だった。
虎だったのだ。」(「山月記」からの抜粋 中島敦)
中島敦は1909年生まれ 太宰治、大岡昇平、松本清張も同年に生まれている。
「どんなに面白い作品でも教室でテキストとして使うと途端に面白くなくなってしまう。」と言っている。
何故虎になるか、人の性格、性質は猛獣みたいなもので、それを猛獣使いのようにうまくコントロールしなくてはいけないが、自分はそれに失敗したので虎になってしまったと言っている。
心の中の猛獣、「山月記」の場合は臆病な自尊心と尊大な羞恥心だった。
その説明が先ほどの冒頭の引用の部分。
詩人になりたかったのに全力では努力しなかった、自分に才能がないかもしれない、才能がない場合全力で努力して詩人になれなかったら、自尊心が傷ついてしまう、それが恐ろしくて努力できなかった。
一方で才能があるのではないかと言う思いもあったから、諦めきることもできなくてどっちもできなかった。
そういう心理を臆病な自尊心、尊大な羞恥心と呼んでいる。
自分で自分にハンディーを与えて失敗した時に、自尊心に傷つかないようにあらかじめ失敗しそうなふうに自分を持って行ってしまう。
「俺よりもはるかに乏しい才能でありながら、それを専一に磨いたために堂々とした詩家に成った者が幾らでも居るのだ。
それを思うと俺は今も胸を焼かれるような悔いを感じる。」(「山月記」からの抜粋)
全力で努力するという事はなかなか難しい、それで失敗したらどうしようと考えるとなかかな全力で努力という事はできない。 そして自分で自分の足を引っ張ってしまう。
「落胆しないために初めから欲望をもたず、成功しないであろうとの余見からてんで努力をしようとせず、辱めを受けたり気まずい思いをしたくないため、人中へ出まいとし、自分が頼まれた場合の困惑を誇大して類推しては、自分から他人にものを依頼することが全然できなくなってしまった。」(カメレオン日記から)
成功しないだろうからそもそも努力しない、厭な目に逢いたくないから人と付き合わない、相手から嫌がられないように人に何も頼まないようにする、ネガティブシンキングのポイントを突いている。
ネガティブシンキングはいい面は全て失うことにもなってしまう。
厭なことが起きない代わりに良いことも起きない。
人はずーっと同じ状態が続くと段々不幸な気持ちになるらしい。
幸福な気持を或る程度保つためにはずーっとちょっとずつ良い事がないと無理で、ずーっと同じ状態だと段々不幸な気持になって来る。
快適な生活を続けていると、快適に感じる幅が狭くなって来る、僅かなことでも不快に感じるようになる。
幸福に生きていたいと思ったら、不快も必要なんです。
ポジティブシンキングでもなくネガティブシンキングでもなく、程ほどが良いわけです。
ほどほどなのかどうか、8分目食べなさいと言われても今6分目なのか7分目なのか8分目なのか、なかなかわからない、失敗しながら身につけて行くしかない。
パラオから妻にあてた手紙
「そりゃあね、丈夫な人ならそうして後20年ぐらい大丈夫、生きられる自信のある人なら2年や3年おまえたちと離れて情けない暮らしをしても、後でそれを取り返すことが出来るんだから良いさ、しかし僕には将来どれだけ生きられるやらまるで自信がない。
それを思うと見栄も意地もない、ただただお前たちとの平和な生活を静かに楽しみたいと言うだけの気持ちになる。
それが一番正直なところなのに、おれはいまごろこんな病気の身体をして、何のためにうろうろと南の果てをうろついているんだ、全く大馬鹿野郎だな俺は。」 (昭和16年9月20日 パラオから妻にあてた手紙)
中島敦は喘息が持病だったが、暖かい方がいいということで、たまたま南方の仕事で行く機会があった。
給料の1/3が薬代に費やされたと言う。
行ったとたんに南国ならではの病気もあり、又病気になってしまう。
嘆きの手紙を奥さんに送っている。
中島は自分が子供のころには家庭に恵まれなかった、両親が離婚、母親とは行き別れ、5歳の時に父親が再婚するが二番目の母親からは虐められ、三番目の母親は浪費家で莫大な借金に苦しめられる。
中島自身は結婚してからは家庭を大事にしている。
成績優秀で東京帝大を卒業して、大学院を途中で辞めて横浜の女子高の先生になってしまう。(周囲はかなり驚く)
学者になりたかったのではなくて小説家になりたかった。(小説家になる為に女子高の先生になって時間がとれる方を選んだ)
しかし喘息の病気になってしまい、お金に困り小説もうまくいかない。
そのままの状態で南国へ行ってしまうが、南国での病気になってしまう。
全然違うほうに人生が反れて行ってしまう。
「夜、床に就いてからじっと目を閉じて、人類が無くなった後の無意味な真っ黒な無限の時の流れを想像して恐ろしさに耐えられず、アッとおおきな声を出して飛び上がったりすることが多かった。
その度に幾度も父に叱られたものである。
夜、電車通りを歩いていて、ひょいとこの恐怖が起こって来る。
すると今まで聞こえていた電車の響きも聞こえなくなり、擦れ違う人の身も目に入らなくなって、ジーンと静まりかえった世界の真ん中にたった一人でいるような気がしてくる。
その時、彼の踏んでいる大地は何時もの平らな地面ではなく、人々の死に絶えてしまった冷え切った丸い遊星の表面なのだ。」 (「狼疾記」の一節)
宇宙的孤独のような感じ、人類もいなくなって、太陽も消滅して無の世界を心配している。
この短編小説の冒頭に孟子の言葉を引用している。
「その一指を養い、しかもその肩と背を失いても知らざれば、すなわち狼疾の人となさん」 (孟子の言葉)
一本の指をかばって、逆に肩や背まで失ってしまうような人は心の乱れている人だ。
短編の最初に引用している。
優先順位を間違えてしまう、それをやってしまうのが人間。(後から考えると、つまらないことにこだわって肝心なことを失敗する)
「みづからの運命(さだめ)知りつゝなほ高く上(のぼ)らむとする人間(ひと)よ切なし」
「しかすがになほ我はこの生を愛す喘息の夜の苦しかりとも」
「 あるがまゝ醜きがまゝに人生を愛せむと思ふほかに途(みち)なし」
「石となれ石は恐れも苦しみも憤(いかり)もなけむはや石となれ」
「いつか來む滅亡(ほろび)知れれば人間(ひと)の生命(いのち)いや美しく生きむとするか」
(「昭和12年の短歌作品 28歳」)
昭和17年パラオから日本に帰って来るが、喘息と気管支カタルで寝込んでしまう。
翌年33歳の若さで亡くなる。
日本に戻って、作家デビューする、この8か月の間に凄い勢いで名作を書く。
滅びることを判りながら高く昇って行く。
中島は奥さんに背中をさすってもらいながら、その腕の中で亡くなって行く。
奥さんは「かわいそうに、かわいそうに」といって、泣き伏していたらしい。
「常々、彼は人間にはそれぞれの人間にふさわしい事件しか起こらないのだ」(「李陵」の一節)
人にはその人にふさわしい出来事しか起きないと思っていたが、でも実際には違って、全然その人にふさわしくないと思うことが次々に起きて、たとえ初めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処の仕方によって、その運命はその人にふさわしいことがわかって来るのだ、と思っていた。
自分にふさわしくない出来事が起きて、ふさわしくない人生を送っていると感じている人達、何故自分はこんな自分にふさわしくない人生を生きなければいけないんだろうと思いながら生きている人達、そういう人たちは実は多いと思うが、その人たちにとって中島敦の言葉はとっても胸にしみるものがあるのではないかと思います。
「いつか來む滅亡(ほろび)知れれば人間(ひと)の生命(いのち)いや美しく生きむとするか」
(「昭和12年の短歌作品 28歳」)
昭和17年パラオから日本に帰って来るが、喘息と気管支カタルで寝込んでしまう。
翌年33歳の若さで亡くなる。
日本に戻って、作家デビューする、この8か月の間に凄い勢いで名作を書く。
滅びることを判りながら高く昇って行く。
中島は奥さんに背中をさすってもらいながら、その腕の中で亡くなって行く。
奥さんは「かわいそうに、かわいそうに」といって、泣き伏していたらしい。
「常々、彼は人間にはそれぞれの人間にふさわしい事件しか起こらないのだ」(「李陵」の一節)
人にはその人にふさわしい出来事しか起きないと思っていたが、でも実際には違って、全然その人にふさわしくないと思うことが次々に起きて、たとえ初めは一見ふさわしくないように見えても、少なくともその後の対処の仕方によって、その運命はその人にふさわしいことがわかって来るのだ、と思っていた。
自分にふさわしくない出来事が起きて、ふさわしくない人生を送っていると感じている人達、何故自分はこんな自分にふさわしくない人生を生きなければいけないんだろうと思いながら生きている人達、そういう人たちは実は多いと思うが、その人たちにとって中島敦の言葉はとっても胸にしみるものがあるのではないかと思います。