2017年10月26日木曜日

松岡享子(東京子ども図書館・翻訳家)   ・わくわく読書(1)

松岡享子(東京子ども図書館名誉理事長・翻訳家)・わくわく読書(1)
東京中野区にある東京子供図書館は公益財団法人の図書館で子供の本と読書を専門としています。
図書館を設立したメンバーの一人松岡さんは82歳です。
アメリカの大学院で児童図書館学科を専攻した後公共図書館で児童図書館員として勤務しました。
日本に帰国後大阪の図書館に勤務しましたが、子供の仕事を専門に続けることが出来ないことが判って東京の自宅で家庭文庫を開きました。
300冊ほどの本でのスタートでしたが、アメリカの図書館で行っていた読み聞かせなどのサービスを実施しました。
その後松岡さんの文庫など都内の家庭文庫が母体となり東京子供図書館が設立されました。
子供に読書のわくわく感を伝えようと活動を繰り広げる東京子供図書館、1日目は図書館を設立するまでを中心に伺います。

うちでは読んでもらいたい子供には心行くまで読むと言うことをしているので、ずっと帰るまで読んでもらっている子もいます。
そばに本が有るだけでもいいし、本が有る場所に身を置くと言うことでもいいし、本の持っている力が本の中に有ると思うので、空気のようににじみ出て、その空気の中に身を置くと言うのはいいことだと思います。
児童室には8000冊ぐらいで、少ないがほとんど基本的な要求は満たすことが出来ると思います。
私は本が好きですし、子供が好きです。
子供のころはそんなに本を読んでいたとは思いません、本はあまりなくて図書館などはありませんでした。
繰り返し読んでいたことは事実です。
8歳上の姉に親が本を買ってくれてそれを読んでいました。
一人でいることが好きでぼんやり空想をすることをよくしていたように思います。

小学校には体育館がなくて体育の日が雨の時にはよく話をする機会があり、よく先生に呼ばれて本の話をしたりして、人に話をすることが好きだったんだと思います。
自分で本が手に入るようになってからは随分読んだと思います。
高等学校の時に転校しましたが、図書館に本が沢山あり毎日通って本を読んでいました。
一日一冊と自分で決めて手当たりしだい読みました。
この世の中には自分とはまったく違う興味を持って、まったく違う境遇で、まったく違う生き方をしている人たちが大勢いることが、私の中に育ってきたように思います。
子供の本に関する仕事をしたいという願いは漠然とありましたが、職種としてどんなことが有るか分からなかった。
小説を書こうかと思ったが、やって見て駄目だと思いました。
英語をやれば役に立つと思って大学では英語の勉強をしました。
卒業後、家庭教師をしながら過ごしていました。

新聞の片隅に慶応大学の図書館学科で学生を募集していると言う小さな広告を見て、図書館学科と言うのは聞いたことがなくて、卒業論文を書くときにライブラリーと言う言葉によく出会って、児童文学とライブラリーがなんとなく関係があると言うことがわかっていたので、図書館学科では子供の本や子供の文学の事を勉強できるのではないかと思って、出かけて行って編入試験を受けて3年生に編入しました。
踏ん切りのつかないたちですが、その時の行動は自分でも不思議に思っています。
勉強は分類法、目録法、参考資料などが主なことでしたが、目録には興味が持てませんでした。
渡辺 茂男先生がアメリカで勉強して、児童図書館員として働く経験も持って、子供に対する読書サービスの事を教えていただいて、とっても嬉しかったです。
子供の時に図書館の存在を知らなかったので、慶応大学の図書館学科に行って一番よかったのは、そこで公立図書館の存在とその役割の大きさについて知ることが出来たことです。
アメリカの公立の図書館には必ず児童室があって、専門の児童図書館員が子供達をいい読書人に育てるための色んなサービスをおこなっているということを知って、子供と一緒に本を楽しんで、話を語ったりする事が仕事として出来ることが夢のようなことでした。

終戦後、占領軍の教育視察団が日本の教育は余りにも学校教育に偏重しすぎて、社会教育に全然関心が向けられていない、だから日本を民主国家にするためには、学校だけではなくて公立の公共図書館が社会教育の中心にならなくてはいけない、そのためには公共図書館で働く図書館員を育てなくてはならないということで、アメリカの図書館協会から先生が派遣されてたち上げた学校だったので、公共図書館の存在と子供にサービスをするということを叩きこまれたことは本当にありがたかったです。
日本には児童図書館員と言う職業はなくて、図書館学科の図書館員として働いていたら、留学の機会に恵まれました。
アメリカのミシガン州のウエスタンミシガン大学の図書館学科(大学院)に留学しました。
難しい分類法、目録法等は日本で勉強しているので取らなくていいと言ってもらったので有難かったです。

子供の読書に関する色々な科目だけを取れたので、充実したいい時期でした。
地元の児童図書館を見学などもさせてもらって、実際の体験をしてみたいと言う気持ちが強くあって、先生から声をかけてもらって市立図書館に面接もなく採用されました。
ボルティモアは98万人ぐらいの都市で、中央館のほかに25分館があり、一番小さい図書館に配属されました
館長(大人担当)と児童図書館員1人で、そこに私が加わりました。
子供達から色々要望されて、行ったり来たりして足が膨らんで靴がはけられなくなるぐらい動きました。
夏休み前は8つの学校の各クラスに行って、夏休みになったら来て下さいと行って廻ったりして、色々楽しくやりました。
市には児童図書館員が35人ぐらいいて、毎月一回ミーティングしたり、本の選択委員会があり、新刊書の検討をして購入するかどうかを討議して決めたり、新人の研修会で話し方の研修があったりして、いい図書館員になるためのプログラムが有りました。
この分館では8割がたが黒人の地域で、図書館がなければ本を読めない様な所でしたが、いい本がたくさんあるのでよろこんで読んで帰っていました。

学生ビザで行っていたので、延長するとなると移民局に行って手続きをしなければいけなくて、日本に早く帰ってこのような図書館をやりたくて1年で帰って来ました。
大阪の市立中央図書館の小中学生室で働くことになりました。
アメリカと日本は驚くべき差でした。
受験生の勉強部屋でした、800席も有るおおきな学習室があり、図書館の本は一冊も使わずに自分の参考書で勉強する、と言うようなところでした。
本を読んであげようかというと変な顔をされたりしました。
余り厭だと言わない小さな子に読んであげていたら、友達を連れて来て、聞いてくれたりしました。
本を読んで聞かせることを一生懸命しました。
複本は入れない規則があるとか、図書館員は児童室に入れる本を選ぶ権利がなくて、アメリカとは考えられない差でした。
一番大変だったのは人は3年働いたらそこにはいられないという規則も有りました。
2年半働いて辞めることになってしまいました。