2017年10月28日土曜日

三田村邦彦(俳優)            ・新潟で育まれた俳優人生

三田村邦彦(俳優)        ・新潟で育まれた俳優人生
昭和28年生まれ、新潟県新発田市出身、俳優にあこがれ高校を卒業後に上京して俳優になります。
主演映画「限りなく透明に近いブルー」でデビューし,その後民放のTVドラマ、NHK壬生の恋歌など数々のドラマ、映画舞台に出演してきました。
俳優を志した三田村さんが地元、家族、仕事とどの様に付き合ってきたか伺いました。

30数年前、番組のドラマの主題歌など歌っていてコンサートをやりましたが、地元でやらないといけないと言われてやったが、二度とやりたくなかった。
伯父さんと目があったり同級生が手をふっていたり恥ずかしいなあと思って、それからはコンサートをやっていません。
昭和47年に高校を卒業して上京して、46年になります。
小学校の3年生ぐらいに俳優になりたいと思っていました。
アメリカ映画「雨に唄えば」を観て、その楽しさ、生き生きして、素敵な仕事だなあと思ったのが小学校の高学年の時でした。
父親からは医者に成れと言われていたが、役者になる夢はずーっと黙っていました。
中学2年で、ある人生計画を立てました。
高校は地元で大学に行くような顔をして勉強しようと決めました。
新発田高校2年で理系(医者になるには理系)を選び、その夏休みに大学の下見と言うことで、2週間東京に出ました。

あらかじめ調べておいて全て劇団、お芝居を見て、戻って来ました。
高校3年の時に大学の受験に行き全て白紙で出しました。
地元と東京の予備校の資料を集めて、東京の予備校にいくほうが進学率が高い事を父親に説得して東京に行くことにしました。
新宿から15分の小さい部屋のアパートを借りて、予備校には行かずにタレントセンターを受けて特待生として受かって、翌年文学座を受けようとしました。
父親にはもう嘘をつけないと思って父親に手紙を出しました。
1週間後にアパートの暗がりに女性(母親らしい)が立っていました。
恐る恐る行ったら「邦彦」と言ってウワーッと泣かれて、部屋に上がり話を一晩中話しました。
お前を連れて帰らないと私は家に入れてもらえないと言われてしまって、朝方に帰ろうと言うことになり、上野駅で特急に乗ることになり、ベルが鳴る前に飛び降りようと思いました。
ベルが鳴りこの機会しかないと駆け出したが、母親も必死についてきてしまいました。
力づくで母親を車内に押しやり、しまる瞬間まで押し込んで、僕はホームに素早く離れました。
母親が涙をぼろぼろ流して悲しそうな顔で僕をじーっと見ていて遠くなっていくが、その時にはさすがに心が痛かったですね。
4,5日してから父親から手紙が来て、嘘を言って親を騙して今まで生きてきて許せない、勝手にしろ勘当だと言う手紙を貰って、小躍りしました。
万歳しました、俺の人生の始まりだと思いました。

翌年文学座を5000人が受けて、一次試験で落ちてしまって、もう一回ちゃんと勉強しようと思って次の年に文学座、劇団青俳(滑り止め)を受けました。
文学座はやはり5000人ぐらいが受け、一次は受かって(100人ぐらい受かった)面接で親の援助があるか聞かれて勘当されたので援助は有りませんと答えました。
アルバイトはとび職など色んな仕事をしました。
親に頭を下げて援助を受けるように言われたが頼めませんとかなりの口論になりました。
文学座は多分駄目だと思いました。(やはりだめだった)
劇団青俳では一次が受かって、面接で木村功さんの舞台を見て感動してどうしてもこの劇団に入りたいと思うといって、親の援助はあるのかと聞かれ有りますと答えました。
(学習能力に依る嘘)受かりました。

アルバイトしながらですと、お金が底をついて出来なくなる。
金曜日の夜から土、日、月曜日朝までアルバイトをして3万円貰えた。(大卒初任給8万円ぐらい)
本公演、稽古、準備などがあり、下っ端は色んな事をやらなくてはいけなくて、2カ月アルバイトはできなくなり、1週間50円で生活したことがあります。
どうしようもなくなってアパートを変えると、小包みが届いていて、手紙、着るもの、お金が入っていたり、母親からのものでした。(何回かある)
ある主役の話があり断ったが、蜷川さんからお前は馬鹿かと言われました。
その後「限りなく透明に近いブルー」の話があって本を買って読んだら、判らなくて8ページ読んでゴミ箱に捨ててしまいました。
村上龍さんから会ってくれないかとしつこく言われて会って、台本を渡されました。
やっぱり良く分からなくて、本を捨てた話もしました。
どこが判らないのか検証しようと言うことで、直すよとそこまで言ってくれました。
でも断わってしまいました。
蜷川さんから又連絡がありお前みたいな馬鹿は見たこと無い、こんなチャンスは人生に一回無い方が多いのに、2回も断るなんてどうしようもない馬鹿だと言われました。
村上龍さんから連絡があり台本を変えたので、もう一回読んでほしいと言われて、ここまで変えてくれたという事で、映画でデビューさせてもらいました。
封切りが1977年だったと思います。

「例えば愛」と言うドラマでも出させてもらいました。
週4日、5日の収録で2日、3日のアルバイトをしていました。
「必殺仕事人」で京都にいったらアルバイト先が無くて、困って交渉して週3万円を支給してもらうことになりましたがギリギリの生活でした。
松竹の撮影だが東映の寮に1400円で泊っていました。
藤田まことさんからは食事によく誘ってもらいました。
どうしてこんなに引き出しの多い人だろうと思って、公私ともに観察しました。
或る時藤田さんから自分の事を少しづつ話して貰うようになって、藤田まことさんの人生は本当に大変な人生を送られたことが判りました。