田本徹(元戦争マラリア患者・声楽家)・八重山で歌い継ぐ“第二の沖縄戦”
72年前激しい地上戦の有った沖縄戦、石垣島の有る八重山地方には第二の沖縄戦と呼ばれているものがあります。
それが戦争マラリアです。
マラリアはマラリア原虫を持った蚊に刺されることによってかかる病気です。
発熱、寒気などの症状があらわれ重症になると死に至ります。
戦時中八重山では日本軍によって、住民たちが山間部や西表島などに避難を強いられました。
そしてマラリアにかかり3647人が亡くなりました。
マラリアで家族を失った田本さんは10年前、その経験を「あの夏の日に」と言う歌にしました。
この歌は今沖縄県内の小学校や式典で歌われています。
この歌に込めた思いを伺いました。
「あの夏の日に」の前半部分の歌詞
「あの夏に日に逝った家族のお話をしましょう。
あの戦争で兄は弾に撃たれ激戦の嘉手納で戦死した。
母の祈りもむなしく散ってしまった兄。
ああ、この世でもう会えない兄。
母の悲しみが癒えぬ間に妹はマラリアにかかり月桃の花の咲く4月に逝ってしまった。
歌の大好きな静子だった。」
あの戦争でマラリアにかかって亡くなるし母も亡くなると言うことで、よく田本さんは生きて来ましたねとそういった感想が寄せられます。
音楽で伝えられたらどうだろうと思って、大変な思いで悲しみを耐えて曲を作りました。
戦争の悲惨さをどうにかして、多くの方たちに伝えようと言う思いが強かったからだろうと思います。
7歳で戦争を体験して、悲惨な状況を体で感じているので、子供の頃の気持ちで、子供のころの体験を具体的に真実を伝えることがいかに大事かと思った次第です。
1937年12月に石垣島の平得(ひらえ)と言う地区に生まれました、12兄弟の5男です。
緑が多く、台風が来るので高い家は建たなくて、山の頂上、海も見えるのどかなところでした。
デイゴの花が家々に咲いて見事でした。
小さい頃は無口な子供でしたが、歌を歌うことは大好きでした。
父が沖縄の古典音楽の 野村流を指導していたので、踊りもしていましたので家は賑やかでした。
艦砲射撃が有り、深夜の出来事で、父の大きな声で防空壕に入るようにとの声が聞こえて、家族皆が防空壕に逃げ込みました。
地響きとともにすさまじい音が聞こえてきました。
防空壕がつぶれるのではないかと、ここで死ぬのかと思いました。
入口から見ると隣の家が火に包まれていました。(茅葺の屋根だった)
1週間後に軍からの避難命令が出ました。
沖縄では「やきー」と言ってマラリアの事を呼んでいました。
作戦上、住民がいるとアメリカの軍艦が石垣島を囲って上陸するのではないかとの噂も有りました。
戦うのに足手まといになると言うこともあったようで、避難しなさいと軍からの命令が有ったと聞いています。
命令に抵抗する者もいたと思いますが、空襲が頻繁に続けば生き残れないとそう皆も思って、現実にはそうもいきませんでした。
波照間島の人は西表島に避難したが、波照間島には元々マラリアは無かったが、将校が強制的に避難させた。
食糧を調達する手段、波照間島の家畜を兵隊の食糧にすると言う思いが有ったと聞いています。
私たちは於茂登山(おもとやま)の麓に山小屋(6畳ぐらい)に2カ月避難しました。
食糧には苦労しました、たにしなどを取って食べました。
兄は戦争が始まって3月に戦死したと言う訃報が届いて、母がそれを聞いて体調を崩してしまいました。
妹も亡くなってしまう。
歌詞にも書かれている。
「母の悲しみが癒えぬ間に妹はマラリアにかかり月桃の花の咲く4月に逝ってしまった。」
静子が生きていたら歌が大好きで、「お母さん」と言う歌があって歌っていたと姉たちが話してくれました。
母に抱かれている姿を庭で立って見ていました。
母が泣き崩れて「静子、静子」と呼んでいたのが耳から離れません。
戦時中はマラリアの特効薬キニーネと言う薬は有りますが、軍が一杯所有していたと言われるが、一般市民にはあてていませんでした。
母にもマラリアの症状が出てくる。
震えが止まらない、全身が大きく上下に震える、40℃以上の高熱が出る。
体力のない人は亡くなって行く。
冷たい水を汲みにバケツを持って何度も往復して、母の額にかけてやります。
背中に剃刀の刃で傷を付けて血を拭き取り、悪い血を抜き取る、と言うことをしました。
何日も寝ていると床ずれが出来て、ウジ虫が出ていました、残酷です。
「あの夏の日に」の歌詞にも書かれている。
「悲しみに負けじと、笑顔を見せた母もまたマラリアに侵されていた。
於茂登山裾野 田のほとり、避難小屋で来る日も来る日も高熱と震えに苦しみ続けた母、
母の最期はあまりにも悲惨だった。」
生まれて4カ月になる弟がいましたが、母が亡くなったため、弟も段々体が弱って栄養失調になり、亡くなってゆきました。(すすり泣く声)
そういったことを体験して現在が有るわけです。
アメリカ兵がジープで来て、はじめて見て吃驚しましたが、怖い思いは持たなかったです。
その後マラリアを撲滅したのはアメリカのDDTのお陰ですから。(1950年代)
マラリアの有る山へ島々の人を送りやった日本軍のやり方、作戦上と言っても悔しいですよ。
マラリアが有ると、マラリアで多くの方が亡くなったことを知っていたはずで、軍に対しては怒りを覚えますが、空襲時には逃げる場所もないし、どうしようもなかったです。
上京して東京音楽大学に進み、音楽の先生として働くことになりました。
美空ひばりと同じ歳で、一緒に成長したと思いが有り勇気付けられました。
定年退職して石垣に戻ってきて、戦争マラリアの遺族会が子供たちに歌を歌ったり、戦争の悲惨さ、平和の尊さを、大切さを伝えようとやっていて、或る方から一緒にやっていきませんかと声がかかり、やらなくてはいけない仕事だと思いました。
2007年「あの夏の日に」を作詞作曲をしました。
*「あの夏の日に」 作詞作曲 田本徹
最後の「この悲しみをこの悲しみを繰り返してはいけない」
これは戦争を二度と起こしたらいけませんと言うメッセージです。