2017年10月2日月曜日

本郷和人(東京大学史料編纂所教授)    ・正岡子規【近代日本150年 明治の群像】

本郷和人(東京大学史料編纂所教授) ・正岡子規【近代日本150年 明治の群像】
講談師 神田蘭
正岡子規 生誕150年 1867年生まれ。 俳句の改革者、野球の愛好者、闘病と言うイメージが強い。

講談で紹介
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
1867年、松山藩の下級役人の長男として生まれる。
幼いころから漢詩、小説に親しみ、自由民権運動の影響を受け政治家を目指して、16歳で上京、東大予備門に入学。
出会ったのが夏目漱石、2人は意気投合、寄席によくいっていた。
野球ではキャッチャーとして活躍。
22歳の時喀血、結核を発症、この時ほととぎすを題材にした句を40~50句つくり、子規と号した。
子規とはホトトギスの事で、ホトトギスは喉から血が出るまで鳴き続けると言われて、血を吐きながら歌を詠み続け自分になぞらえたものと思われる。
14年の間闘病しながら創作活動、最後の6~7年はほとんど寝たきり、20万句程残している。
明治30年俳句雑誌「ほととぎす」を創刊、翌年、「歌よみに与ふる書」を、新聞に連載。
古今集を否定、万葉集を再評価、写実主義をといで、俳句や短歌の世界に革新を起こす。
「あららぎ」
「鶏頭の十四五本もありぬべし」についての論争が起きる。
へちま、咳をきる効果があったそうで庭に植えてあった。
「糸瓜咲いて 痰のつまりし 仏かな」
「痰一斗糸瓜の水も間に合わず」
「おとといのへちまの水も取らざりき」
見たまま、あるがままを句にする子規の俳句魂がここに集結していると思う。

今年8月に未発表の5句が発見される。
「寝後れて新年の鐘を聞きにけり」
「暗きより元朝を騒く子供哉」
「うらうらと初日の影や枯木立」
「初夢や巨燵ふとんの暖まり」
「留守の戸に名刺投込む御慶かな」

慶応3年(1867年)10月に松山市で生まれる。
旧松山中学から東大予備門に入学。
夏目漱石、南方熊楠らと同級。
秋山真之とも親友だった。
野球が大好きでキャッチャーをやっていた。
英語の言葉を日本語に置き換えて、野球殿堂に入っている。(2002年)
バッター=打者、ランナー=走者、フォアボール=四球、ストレート=直球 等。
「今やかの 3つのベースにひとみちて そぞろに胸の うちさわぐかな」

しき=ほととぎす
長生きはできないと思っていたと思われる。
明治の文化人は雅号を持っている。
大学は中退してしまう。(社会と関わる)
新聞記者として日清戦争の従軍記者として自ら進んで遼東半島に行く。
喀血して日本の松山に帰ってくるが、そこで松山中学に先生として赴任していた夏目漱石と出会い、下宿に転がり込む。
漱石は結核の子規をよく迎えたと思う。
文学論をたたかわせる。
上京して、子規庵に住む事になる。
色々人を呼んで句会をやったようです。(リーダー的存在)
結核菌が脊椎を犯して脊椎カリエスになってしまうが、表面的には明るい、強い意志を持った人だった。
母と妹の律さんが看病して明治の女性は凄かった。
秋の句
「赤とんぼ筑波に雲もなかりけり」
「行く我にとどまる汝に秋二つ」
「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」
「鶏頭の十四五本もありぬべし」

子規は与謝蕪村を再評価した。(枯れている感じを評価)
お金とか、名誉とかを捨て去った様なところにある文学のありよう、この2人は似ている。
「歌よみに与ふる書」では、古今集を否定、万葉集を評価しているが、その文章が過激です。
古今集(貴族)は生活実感に根ざしていないことに対して評価が低かったようです。
俳句の世界、歌の世界を人々に開いたという功績があると思います。
ありのまま、写実を高く評価するようにした。
「あららぎ」派
病状が悪化して寝たきりになる。
エッセーも出している。
痛みがある中でよくここまで仕事をしたと感心します。

明治34年11月6日に子規からロンドンの漱石へ出した手紙がある。
「僕はもうダメになってしまった。毎日訳もなく号泣しているような次第だ。
だから新聞雑誌などにも少しも書かない。手紙は一切廃止。
それだからご無沙汰して済まぬ。
今夜はふと思いついて特別に手紙を書く。
いつかよこしてくれた君の手紙が非常に面白かった。
近来僕をよろこばせたものの随一だ。
僕が昔から西洋を見たがっていたのは君も知っているだろう。
それが病人になってしまったのだから残念でたまらないのだが、君の手紙を見て西洋へいったような気になって愉快でたまらぬ。
もし書けるのなら僕の眼の開いているうちに今一便よこしてくれぬか。
無理な注文だが。
絵葉書も確かに受け取った。
ロンドンの焼き芋の味はどんなか聞きたい。
不折(中村不折)は今パリにいってコーランの所に通っているそうじゃ。
君におうたら鰹節一本送るなどと言っていたが、もうそんなものは食うてしまってあるまい。
虚子は男子をあげた、僕が「年尾」と付けてやった。
高桑闌更(たかくわらんこう)死に、非風(新海非風)死に、みな僕より先に死んでしまった。
僕はとても君に再会することは出来ぬと思う。
万一出来たとしてもその時は話も出来なくなっているであろう。
実は僕は生きているのが苦しいのだ、僕の日記には古白曰来(こはくいわくきたれ)の4字が特書してあるところがある。
書きたいことが多いが苦しいから許してくれたまえ。
明治34年11月6日」 

この時の漱石はまだ小説家ではなかった。(大学教員)
その後小説家になったが子規の影響があったのでは。
翌年明治35年9月19日に亡くなる。(34歳)