臼井二美男(義肢装具士) 血が通う義足を作りたい
障害を持つ人の為に義足を作り続けている臼井さんは58歳、サポートしているのは、東京オリンピック、パラリンピックの招致の際、最終プレゼンテーションでスピーチをした佐藤真海さんを始め400人に及びます。
大学を中退したあと、フリーター生活を経て、28歳の時に当時の財団法人鉄道交済会東京身体障害者福祉センターに就職、義足の作り方をいちから学び、国家資格である義肢装具士を取得しました。
1989年からは、通常の義足に加えスポーツ義足の製作もはじめ、義足を装着してのスポーツも指導してきました。
どんな気持ちを込めて義足作りに当たっているのか、障害のある人たちに力を発揮してもらうためにどんなサポートをしているのかを聞きします。
佐藤真海さんとの出会いは11年前、ある日大学生の女性が訪ねてきた。
杖をついて足を引きずるような様子だった。
走りたいけれども私でも大丈夫でしょうかと言ってきた。
歩くのも上手ではなかったが、真剣な訴える目つきが違っていた。
普通にあるいても痛くない義足の製作から始まった。
私はトラックの運転手を始め、バーテン、ガードマンやったりいろんなアルバイトをやった。
自分に有った手に職を付けたいと、職業訓練校があって、そこに義肢科があって、小学校の6年生の時に担任の女性の先生が悪性の腫瘍になってしまって、膝からうえで足を切断して義足になったという事を思い出したんです。
そのことをふっと思って義足を作る仕事にチャレンジしてみようかと思って、学校の門を叩いたのが最初です。
実際に働いている製作現場を見学に行った。(鉄道交済会東京身体障害者福祉センター)
そうしたら一人欠員があり、入らないかとの話になり、やってみようという事になり、学校には行かないで今の職場に入ることになった。
本を読んでも判らない事が多くて、先輩から指示された事を一個一個やってゆく事の繰り返しだった。
人間、同じ人はいなくて、足の長さ、皮膚の硬さ、骨の長さ、表面の皮膚の状態、千差万別なので一人一人に合わせて作るのがなかなか難しい。
自分ではうまくできたと思ってはいて頂いたら、きつくてはけないとか叱られて、義足を床に投げられたこともあり、其時はショックだった。
一人一人の感性もあり、きちっとしたのがいい人もいれば、緩めの方が好む人もいる。
日本人は感覚が豊かなので、障害を持ったことでナイーブな方がいるので総合的に理解して一緒に作っていくみたいなことがないとなかなか受け入れてもらえない。
義足は全体重をうけ止めるところなので、ソケットに全体重がかかる。
走ると200kgぐらいかかるので、ソケットが適合していないと、必ずどこかに傷ができたりあざができたり、トラブルになってしまう。
スポーツをやる選手は筋肉がついてくるので、そういったことを想定しながらやらないと、長く使えない。(半年先を考えながら作らないといけない)
はいているのを忘れてしまうまで行けばいいが、そこまではそう簡単にはいかない。
出来ればその義足を使って、スポーツをするとか、行けなかった旅行に行くとか、新たな事ができる様な義足作りができればと思っている。
合わなくなると最初から、足の切断面を石膏で型を取り、修正をやって、仮のソケットを作る。
よかったらそれを仕上げて、本ソケットを作る。
担当している人が400人ぐらいいる、その人たちとずーっと付き合ってゆく。
30年間やっていると長い付き合いと成る。
人生の節目節目に立ち会うこともある。 結婚式に立ち会うとか、就職とか。
ハワイで水にはいりたいのだけれども、とか 温泉の大浴場に入りたいとか、要望があるとどうすればいいかとかいろいろ考える。
ネジが多いと故障の原因になるので出来るだけシンプルの方がいい。
今はカーボンファイバーでスキーの板の様になっている。
体重をかけると板がたわんで反発を利用して、跳んだり、走ったりする。
佐藤真海さんは膝からしたの切断なので、大きくは3つの構成部品、足を入れるところ、パイプみたいなもの、地面を踏みしめるところ、と成る
ひざより上の切断の場合は、人工の膝がついている。(丈夫に出来ている)
動きの加減を油圧、空圧で再現するという風に高度になってきている。
1989年からスポーツ義足の製作を始める。
就職して5年後に、アメリカの義肢の雑誌があり、パラリンピックで義足で走っている写真があり、自分の周りを見ると義足で跳んだり、走っている人がいなかった。
聞いても走ったっことがないという。
義足の機能が走ったりできないんだと、アメリカ製で丈夫な部品を研究費で買っていただいて、走れるかどうか、実験的なことをやって、病院では教えてくれなかった。
やってみるとぎこちないが1日目で走れてしまう。 その時に涙を流した。
諦めていた事に対する感動、泣いた姿をみて、継続してゆく価値があると思って今に至っている。
一般の義足は見るからに足の形をしていてふくらはぎがあり、柔らかい素材がついている。
スポーツ用は機能重視なので、板の様になっていたりする。
生活が出来て、スポーツが出来て、という様な事は出来ない。
後50年もすれば、万能の義足ができるようになるかもしれないが、今は万能ではない。
障害者のスポーツセンターがあり、月に1回集まって基本的な走りなどを一緒にやって、徐々に走るためのサポートを一緒にやる。
一緒にやることが励みになる、安心する。
2000年 シドニーで、鈴木徹君が日本で最初に義足でパラリンピックで走った。
ロンドンの時には義足の選手が7人参加、新しい人たちが出てきている。
佐藤真海さんは走り幅跳びの選手 アーチェリーに義足の選手がいたり、義足を使った選手のサポートという事で行かせてもらっている。
欧米は義足の歴史が古いので、海外の選手の義足を見てくることは非常に勉強になる。
日本選手にすこしでもいいところを取り入れていきたい。
日本に6万人義足を使ってる人がいるが、スポーツ義足を使っている人数%だと思う。
佐藤真海さん等が活躍する姿を見ると、スポーツをやっていない人でも励みになる。
パラリンピックとかが持っている、人をたくましくさせるきっかけ作りになるイベントだと思っている。
週に5回ぐらい会社を終わった後に練習をしている姿を見ると、涙が出てくる。
選手の育成、若い選手を育てる、最初からスポーツをやりたいという人は少なくて難しくて、
スポーツの効能は大きいので出来るだけ誘おうとしている。
職場の技術者、一緒に歩んで行ける様な人の育成、 その二つが必要です。
基本は、病院で悲しみのどん底にいて、その人たちを少しでも早く、気持ちだけでなく身体を含めて社会に戻してあげる、自信を付けさせる、笑顔に早くさせる、そういう基本的な活動を続けてゆく、その上に、スポーツがあったり、仕事があったりするので、それだけはまだまだ変わらない形で続けてゆきたい。
サポートするのが、天職みたいな感じになっているので、義足で溌剌としている人達を一人でも増やしたいと、そんな気持ちでまだまだいたい。