2014年4月24日木曜日

森下辰衛(三浦綾子記念文学館)  ・氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(1)

森下辰衛三(浦綾子記念文学館特別研究員) 氷点50年~三浦綾子文学の力を信じて(1)
北海道旭川市生まれの三浦綾子の文学を研究している森下さんに伺います。
51歳、元福岡女学院大学助教授で、8年前に家族で旭川に移りました。
今は旭川市にある三浦綾子記念文学館特別研究員として三浦文学の魅力を伝える活動をしています。
今年は三浦綾子のデビュー作氷点から50年と言う記念の年です。
3年前の震災以降、三浦綾子の著書は多いものでそれまでの4倍も増刷されより多くの人に読まれるようになり、再び注目されています。

4月25日が三浦綾子の誕生日   「氷点」は 50年になる。
三浦綾子さんは大正11年に旭川市で生まれる。 堀田綾子
17歳 小学校の先生になる。 軍国教師として教える。
子供達に一生懸命、軍国教師として、あなたたちはお国のために、天皇陛下のために、戦争に行くのですよ、それが日本人として最も素晴らしいことなのですよと、教えました。
7年間小学校の先生をした後、昭和20年敗戦 GHQが入ってきた。
軍国主義的な教科書の本に墨を塗らなければならない事になる。
それを見ながら私がやったことはなんだったんだろうか、子供の心に墨を塗る、それは本当に大きな絶望の時でした。
人間の価値観は一日でこんなにも大転換してしまうものなのか、自分の人生の目的もすっかり失ってしまった。
教師として語る言葉は無いと、昭和21年に教師をやめる。
信じることが無いと言う絶望感、虚しさ、人間不信と言う事で本当に心がすさんでゆきます。
教師を止めた年に、肺結核、脊椎カリエスになる。(当時としては死の病)
自分も愛する事ができなくて、オホーツク海に身を沈めて死のうとしたりする。

前川正という幼馴染のクリスチャンが現れます。 北海道大学の医学部の学生ですが、彼も結核になって、休学を何年もしていると言う状況でした。
綾子さんの心のすさみから、煙草を吸ったり、酒を飲んだりしていることを聞き、訪ねてゆくが、拒絶する。(クリスチャンなんて大嫌い)
私を生かし直してくれるなら、本物の愛があるなら、欲しいと叫んでいる、そんな乾いた魂があると言う事を前川さんは気がついて、前川さんに導かれて綾子さんはキリスト教の信仰を持つ事になる。
綾子さんを救う事ができないと言って、それが情けないと言って、前川さんは小石を持って自分自身の足をうち始める。
その姿の背後に綾子さんは今まで見たことがなかった光を見たような気がすると、書いている。
綾子さんの人生が大きく転換し始めてゆく、聖書を読み始めて、神様を求めてゆくという生活が始まってゆく。
病気が悪くなり、札幌医大病院に入院して、脊椎カリエスの為にギブスベッドに入る、と言う事になる。

洗礼を受けて、クリスチャンになる。
大きな手術をして、肋骨を8本きるとる大手術、病状は良くなるが、客血が出るようになりそんなな中で、前川正は1954年5月に亡くなる。
1955年6月 三浦光世が突然彼女の前に現れる。 前川正にそっくりな、クリスチャンだった。
二人は愛し合う様になった。
いつ治るかわからない、ギブスベッドにはいっている綾子にプロポーズする。
私たちは前川さんに導かれたのです、前川さんに喜んでもらえるような二人になろうという。
13年の闘病の後に、37歳で35歳の三浦と結婚する。
1963年に朝日新聞の懸賞小説 社告を見て「氷点」を執筆する。
1964年に一等入選して作家デビューする。
1999年に亡くなるまで30数年にわたって、沢山の小説を書いてゆくが沢山の病気もする。
喉頭癌、血小板減少症、重症のヘルペス、直腸癌、直腸癌の再発、パーキンソン病。
最後のパーキンソン病の時には、妻に献身的に介護をした。
沢山の傑作を書いて逝った作家だったと思います。

三浦文学の研究を始めたのが、1995年に福岡女学院短大で教え始めた時に始めたので20年目になる。
学生から三浦綾子は教えてくれないのかと、言われたのが、一つのきっかけ。
こんな愛と言うものが男女にある、こんな愛に出会って、変えられていった三浦綾子さんの人生って本当にいいよなあ、と学生がみているから、三浦綾子をじっくりと読ませる、一緒に読んでゆく事がとってもいいことではないかと思った。
研究をしていなかったが、1年間ゼミと言う授業で有名な作品を取り上げて、読むようにした。
10数名を連れて旭川に行って、綾子さんにお会いしたが、パーキンソン病が悪くなっている状態だったが、一緒に学生と話をして、震える手でサインをして文庫本を一人ひとりに下さった。
学生も私も感激しました。  学生の顔つきも変わった。

三浦綾子は人を変えてゆく、人を励ましてゆく、人を生かしてゆく力のある文学なんだなと、体験的に知るようになった。
読めば読むほど深いもの、キリスト教を伝道する文学と若干見ていたが、でもそれ以上に深いものが、豊かなもの、研究するに足るものがあることを確信するようになった。
三浦綾子読書会を始めようと考えた。 
銃口」 作品 のなかで 「人間が人間として生きることは実に大変なことだなあ」、これは治安維持法違反、冤罪で捕まえられて、尋問され、拷問されていた時の人物の言葉。
苦難をしいてくるなかで語られた言葉。
人間が人間として生きるのを難しくさせるものがあって、①罪 ②苦難
罪の問題 罪があるが故に、人間が自分の心がおかしくなり、人間関係が壊れ、家族がおかしくなり、果てには国同士が戦争をするところまで行く、それも全部人間の罪から出ているのではないかと三浦綾子は見ている。

罪に対する解決、許し、そこからの解放 そういうものがキリスト教のなかに一つの答えがある、だからキリスト教の聖書の言葉を紹介する、と言う事を三浦綾子がしたのかなと思う。
人間が人間として人間らしく生きてほしい、という本当に母の様な深い愛が、三浦文学の根本のところにあって、豊かな人間の物語がそこにあったと思う。
「氷点」 の創作ノートに描かれている佐石土雄は、実はだれとでも話をしたい懐かしさのままにルリ子と河原にいって、るり子に泣かれて錯乱状態になって、ルリ子の首を締めてしまう。と言う事がノートに書いてある。

養女誘拐殺人魔と言っていい人物なんですが、佐石土雄を綾子さんはとっても寂しくて、誰でもいいから私と話をしてくれないかと、願っていた人だったとそこに書いている。
或る日、ルリ子とであって、川に行こうと連れて行ったが、ルリ子はさびしくなって、泣きだして思わず首をしめてしまい、気がついたらルリ子はぐったりしていて、そして逃げた。
佐石土雄は関東大震災の時に、両親を亡くす、東北に住んでいるおじさんに育てられるが、16歳の時にたこ部屋に入れられて、たこ部屋を転々と渡り歩き、赤紙が届いて中国に渡り、大けがをして、終戦直前に北海道に渡り、日雇い人夫をして、内縁の妻 ことさんと出会う事になり、奥さんが子供を産むが奥さんが亡くなる。
仕事もなく泳ぎに行こうかと思って、家を出てしばらく歩いたところで、ルリ子さんに出会う。発作的に行きずりのルリ子の首を絞めて殺してしまう。   と言う様に細かく設定している。
つかまって、自供して直ぐに自身も留置所で首を吊る。
大震災から戦争、佐石土雄は日本が通った苦難を一身に集約した様な人生。

①どうして俺の人生にはこんなに苦難が沢山あるのかと、叫んでいる、問い。(苦難)
②どうして人間は罪を犯さずに、生きてけないのだろうかと言う、問い。
 殺そうと思ったのではないのに、どうして罪を犯してしまうんだろうか、問い。(罪)
苦難と罪、二つの問いが三浦綾子の大きな主題になっている。
 
アダム へブライ語では「土で作られた人」という意味  直訳するとつちお(土雄)  佐石土雄 
全ての人間の避けがたいもの それが罪、苦難
苦難を生きていかない人の原型として佐石土雄 を綿密に愛を持って書いている。
「銃口」の最後の頃に近堂弘 が出て来るが、佐石土雄にそっくりな経歴で、佐石土雄に対する一つの答えとして出てくる。
苦難の中を生きながらも、絶望しないで、愛して生きる、にも関わらず、命がけで人を愛して生きる、人生と言うものがあると言う事を近藤博で描いてゆく。
近堂弘は戦争が終わると言う日、昭和20年8月15日に小浜というもう一人の兵士と一緒にトラックで輸送していた。
そこにソ連軍の飛行機が来て、小浜伏せろと言って、小浜のうえに覆いかぶさってゆくが、銃弾を受けて死んでゆく。
罪と苦難の故にへこたれて、死ななければならないんじゃないんだ人間は、にもかかわらず愛して生きてゆくと言う道が人間には有るし、人間の本当の素晴らしさや高貴さはそこに在るんだと言う事を近堂弘を通して描いている。
近堂弘の最後を語った手紙を読んで、北森竜太が近堂博の様な人間がいたことを教えたいと、もう一回教壇に立つ、そういう物語になってゆく。

14年間務めて、1年間の休暇があった。 戻って論文を書いて、教授になる予定になっていた。
家族と共に旭川に行く事になる。 三浦綾子の研究をする予定だった。
聖書の文章 「貧しいものの開拓地にはおおくの食料がある。」 心に留った文章だった。
北海道を回って判ったこと。 
読書会と言う形で、街、村に行きなさい、そこに行って三浦綾子さんと一緒に神様の愛を伝える仕事をしなさい、それがお前の開拓地であり、それがお前の食物なんだ、それがおまえの仕事なんだと、そんな風に聞こえるようになりました。
帰れば教授になれる予定だったので、恐れはあったが、妻と語り合って、バックできない一つの道が用意されていると思わざるを得ない様になった。
旭川の冬、福岡、西日本では365日変わらぬ生活ができるが、半年間は雪の中を歩くしかなかった。
そういう言う体験をしたことがなかった。
思索を深めてゆく、人生についてだったり、人間についてだったり、自分自身についてだったり、神についてだったり、すこしずつすこしずつ歩く速度で考えてゆく、それは素晴らしい時間、場所、季節で有ったと思う。


震災以降、三浦綾子の著書が多く読まれるようになったが。
希望を語っていると言う事、苦難を知っていて、苦難の中で人はどう生きてゆけるのかと言う事を、人生を通して考えて、その回答をはっきりと語ることができる人だったと言う事が非常に大きいと思います。
人間の温かさを求めている、多くの人が、そういう時代だと思います。
競争がますます激しくなり、人の愛が本当に冷たくなり、社会、国際関係でもせめぎ合う中で、人間の本当の温かさ、命の温かさ、愛の温かさ、そこに戻ろうよ、というメッセージが三浦綾子の中に在ると思います。
そのメッセージで自分の生き方を反省しながら、この時代をどう生きていったらいいか、指針、問い、栄養になると思う。
そういった三浦文学を読んでそれを片手に生きようとしているのではないかと思う。