2014年4月23日水曜日

平本紀久雄(海と漁業を考える会会長)  ・ 絵馬に見る、漁師たちの願い

平本紀久雄(千葉の海と漁業を考える会会長)   絵馬に見る、漁師たちの願い
三陸沖から房総沖にかけての太平洋沿岸で取れる水産資源を研究し、いわし予報官と漁師さんたちから呼ばれれるほど慕われてきた平本さん、講演や相談を受けて忙しい毎日を送っています。
平本さんは江戸から明治時代にかけて、海岸集落の神社などに奉納された絵馬を探して歩いています。
畳一畳分もある大きな絵馬には当時の地引網の様子やそこに集まる人たちを書いた作品がおおく、豊漁に笑い、不良に泣いた漁師たちの心のうちが見えるそうです。

退職して14年、最近では民謡歌手とジョイントで、私が話をして、民謡歌手は大漁節などを歌ってくれる。
イワシは一杯取れると食べたくなくて、取れないと食べたくなる。
20~30年前までは日本一のカツオのえさのイワシの供給地だった。
1990年ぐらいからイワシは取れなくなって、どん底から少し良くなった程度。
マイワシしが減って、カタクチイワシが増えてきている。
大きなうねりみたいなものがあるようです。
昭和37年に水産試験所に入る。 当時はマイワシは全然取れなかった。
10年経って、マイワシが取れるようになって、1980年代は毎年の様に取れて日本全国の総漁獲量の40%近くがマイワシ一種類だった。

務めてから3年経って、魚を予想しろとの通達があり、親潮、黒潮等、海流の変動だけで言っていたが、当時は全然当たらなかった。
地道に調べ始めた。
漁業者は自分なりの予報を持っているが、自分の予報よりも水産試験所のデータが当たるようになった。(それまで10年間掛かった)
銚子がイワシが取れるところで、予報を頼りにしてくれるようになった。
マイワシはうまれて1年経たないと、判らない。
魚種に依って、水揚げ場所が違う。 イワシは銚子。
イワシはニシンの仲間でマイワシ、カタクチイワシ、ウルメイワシ等26種類ある。
イワシの季語は秋だが、マイワシの場合は入梅ごろに一番脂が乗っていて美味しい。
カタクチイワシは脂がのるのは夏だが油が乗り過ぎて、使い物にならないので、秋から冬。
ウルメイワシは冬の油の抜けたものを干物にする。

マイワシは一番取れている時は魚粉にする。(70%)
養殖魚のえさ(30%程度) 人間が食べるのはほんの数%。
マイワシは生で食べるのが一番おいしい。
多く取れている時はそれなりの予報ができるが、取れない時の予報は難しい。
魚種の代わり方は、誰にも予測はできない。
魚の生活、何を食べどういう風うな集まり方をするのか、生き物として見る。
ベテラン漁業者に凄く教えてもらった。
①浦周りイワシ  取れた浦 から毎日南に下って取れる。
②沖寄せもの  ある日突然沖から群れが出てきて突然いなくなる、そして又出てくる。
③地ごいわし  群れは小さいけれど、いつもいるイワシがいる。

漁師は大事なところはなかなか教えてくれない。   親から子に教える。
サバは目が良くて夜でも群れを作っている。
イワシは目が弱いので群れが夜になると散る。
今、カタクチイワシが少し減ってきて、マイワシが増えてきているが、思ったほど増えてきてはいない。
マイワシが本格的に増えてくるかどうかは判らない。 70年周期説がある。
利根川河口で1月前で遭難した船はあとかたも無かった、1週間前のは船底が見えたが。
漁業者は信心深い。  絵馬 遭難をのがれたという感謝の絵馬が飾られている。
江戸時代から絵馬を奉納する。 畳一畳より大きな絵馬が奉納される。(漁業絵馬)
神社に所狭しと残っている。
地引網の絵馬が一番多く残っている。
イワシ漁の絵馬は一番盛んだった銚子には無い。

絵馬の数でどういう漁業がいつまで栄えたのか判ると思って調べた。
50以上神社を回った。 
江戸時代と明治では顔料が違ってきて、江戸時代の方が立派な絵が多い。
昭和になると、汽車が描かれている。
魚を盗みに来る人がいるが、その人が追いかけられて水をかけられて転んでいる絵などもある。
万祝い 大漁の時に船主が御褒美に反物を配り、仕立てて、出初めの時に着て神社にお参りする。(綿の入っていないどてらの様なもの)    木綿に藍染め 
万祝いも絵馬も千葉から始まって、北は八戸、南は静岡まで広がっている。
江戸から関西に「干鰯、ほしか」(高級肥料 魚粉)に運ぶ一番の産物だった。
米、綿、藍(肥料を凄く消費する) の為に運んだ。 あらゆる農産物の肥料
江戸時代 大阪に出荷されたもの 1位米、2位木綿、3位菜種、 次にほしか
江戸の経済はほしかで支えられていたと言っても過言ではない。

舘山は漁業を捨ててきた街ではないかと思う。
江戸時代はほしかを生産して、江戸に運んでいた、明治、遠洋漁業でオットセイを取りに行っていた、大正ではカツオ漁、関東大震災で土地が隆起して港が使えなくなる、戦争で軍港になる。
今はカツオ船が全くなくなり、サバの船も無くなってしまった。
家族で漁業を営むところでは親から子に技術、情報が伝わらなくなるのが心配。
浜がドンドン荒れてきている。
九十九里浜 砂浜が何千年かけて蓄積してきた物が、数十年で無くなってきた。
海岸に砂が出ない様に、ブロックで囲った。(人間の都合)
帳尻が合わなくなって、良くしようと思って逆に自然を悪くしている。

郷土史を調べ始めている。
内村鑑三は水産課の足を洗って思想家、教育者になっていった経緯は館山での出来事。
明治時代にマグロ漁業の日本一の漁港だった布良(めら)の神田吉右衛門の影響を受けたことを繰り返して言っている。
どんなに技術改良をやっても駄目だと人間を変えなければだめだと、布良(めら)で神田さんにあって半月後に辞表を出して、旧制一高で、半年後に不敬事件を起こすことになる。