佐藤通雅(歌人) 慟哭(ドウコク) 震災を言葉に
佐藤さんは1943年昭和18年に岩手県遠野で生まれました。
東北大学教育学部を卒業後、宮城県内の高等学校に勤務し、2003年平成15年に定年退職しました、。
2012年平成 24年に歌集「こはじも」で第27回詩歌文学館賞、短歌部門賞を受賞しています。
2013年平成25年11月に歌集 「むがすこ」を出版して、大震災から3年後詠んでおられます。
昔話 ではなくて「むがすこ」と読む。
これから100年後、200年後、以下の震災と言うものがそのうち皆から忘れられて、物語としてつとしてゆくのではないかと、「むがす、むがす らずもねいこと あったじも むがすことなるときをはよこよ」 と言う事から取った。
むがす=昔 らずもねいこと=とんでもないと あったじも=あったそうな
苦しみが早く終わって、昔話として語られる時が早くきてほしいと、祈りを込めて作った、そのような題だったんです。
遠野物語はいつも傍らにありました。
3.11に震災が起きた時に、震災はやがて来るだろうと思っていた。
8割の確率でかなり大きな地震が予告されていた。 しかしいつ来るかわからない。
直後はどれほど広いものだとは判らなかった。
町内会の人と巡回を始めた。 食料、交通、通信手段を確認しながらいったが、規模の大きさを知ったのは持っていた携帯ラジオだった。
津波警報をずーっというものですから、これはとんでもないことになったんだなあと思いました。
携帯ラジオを一晩中聞いていた。
荒浜では200名から300名の遺体が見つかったとあった。
アナウンサーがそれをいいながら慟哭し始めた。
石巻、気仙沼で大火災が発生したとか、大震災だと気付いた。
何とか早く浄化してほしいという気持ちがわいてきて、其時に浮かんだのが「むがす
むがす・・・」と言う事だった。
「背足も冷えて眠れず ヘルプ ヘルプ 答えくるるは、余震のみにて」
「冷凍のしし(肉)のごとくに、冷え切りし 肩に手のひら あてて明け待つ」
外がようやく明るくなった時に一つの不安が終わったなあと思った。
仙台文学館でシンポジュームがありました。 「大震災と詩歌 被災県から発信 パート3」
1回目は短歌の集い 会場は溢れんばかりに来ました。
これまでにない優れた歌を作った。 何かしなけらればと言う様なつよいおもいがあったと思う。
2回目が俳句、 3回目が詩と俳句と短歌 3つの部門でやった。
始めの震災直後は、兎に角全体が被災者だという感じだったが、時間がたつに従って、震災の絆の一人ひとりの心に入ってきて、一人ひとりが背負ってゆくほかないんだという様な気持ちが強くなってきた。
被災は時間と共に、世の中では忘れられてゆくが、しかし一人ひとりが傷として中に持っている。
2年経ったあたりから、やっと何かいわなければならないと短歌などで出てきた。
東北地方は一種の植民地のような形なので、震災が起きた時に、かなり同情が集まったのは確かなんですが、しかし忘れさられてゆくスピードも予想以上に早かった。
オリンピックがきまった後の忘却の速さはこちらが驚くばかりだった。
福島、家を追われるという事、具体的な感覚が解ってもらえない。
故郷を失うと言う気持ちは、映像化できない、言葉にもしにくい、一気に全てを失うという事の辛さをが全体に広まってゆかないで、3年で忘れ去られてゆく、という気持ちが出てきた。
いつか関心外になるだろうと思っていたので、一人ひとりが傷を負った時から文学は始まるんだと覚悟していたので、やっと出発点かなという気がしています。
全国的な目で見ると三陸は一つの地域でしかない。
私たちが傷ついたのは、日本でもう原発は売れないから、海外にいって売ろうと、セールスが始まったのは非常に傷ついた。
日本がだめなら海外に行って売ろうという発想は私たちは全く考えなかった。 唖然です。
平成元年から河北新報の歌壇の選者をやってるので、ずーっと拝見してきたが、今回の3・11以降の一般の方たちの創作意欲はこちらが驚くほどだった。
河北新報は5月1日からようやく再開したが、どーっと来て真に迫るものだった。
被災の状況に依り3つの段階にわかれると思った。
第一は直接の被害者 第二が家族を失ったり、家を失ったり直接被害受けた人 第三は直接ではないけれど何らかの形で被害を受けている人
一杯作って送ってくださったのは第三の人々。
1カ月、2カ月たつうちに第二のグループの方たち 亡くなった方たちの代弁を何とかしようとの想い、言葉として残してあげたい、との想い。
今まで歌を作っていなかった人が、短歌、俳句があるなと考えて、何人も投稿してくださった。
自分の幼い子供を失った人は、今も作っていない。
言葉にするという事はそう簡単なものではない。 10年以上かかるのではないかと思う。
心身にひずみが来ると、10年はかかるのではないかと思う。
短歌の世界では震災の後に、当事者、非当事者か と言う事が問題になった。
当事者でもないのに作っていいのかと、歌人の苦しみがあった。
神戸の震災の時にも、どっと出来たが、その時の反省で、ただ同情して作ったとか、自分は被災していないのにTVを見て作ったとか、そういう問題が反省された。
今回気付いた事は、神戸の場合と、今の場合が違ってきたことに気付いた。
携帯、パソコンの違いだと思った。
神戸の場合は一人ひとりがぱちぱちと撮るようなことはなかった。
今回はかなりギリギリまで撮って、それが日本ばかりでなく、世界に広がってゆく。
現実と非現実の世界がほとんど境界線が無くなったと思った。
映像=非現実 非現実でみて作られるのも同じだなあと思って、この人は圏内、この人は圏外と言う事は止めた。
大川小学校を訪ねた時に詠んだ歌。「裏山へ」
「裏山へ なぜ逃げなかった 問ふて問ふて問ふてすべなきことをまた問ふ」
校舎のすぐ裏手は山なので、誰もが思う。
高校の先生をやってきて、一人も亡くさなかった事にホッとしている。
一人一人の教員の無念さも判る。
大川小学校を見るときには複眼で見ていかないといけないと思う。
「何もかも かたずけられてゆく 消されてゆく 待ってください 声がするんです」
親の立場で作っている。 私は文語体だが、口語調でなければいけないと思った
震災の表現は今から始まると思っている。
震災にあった人は、一人一人が自分で背負って生きていくしかない。
たまたま自分が生き残ったと言う気持ちがどうしても抜けない。
「生き残る ものの不浄よ ぬか(額)たれて 安らかに と低く言う ほかはなく」
生きるか死ぬかは偶然でしかなかった。
死者の想いも引きうけて、前に進むしかない。