久坂部 羊(作家・医師) 医者の父がめざした”明るい最期”
昭和30年 大阪府堺市生まれ 58歳、 大阪大学医学部を卒業後、病院勤務を経て、パプアニューギニア、オーストリア、の在外公官で医務官として 9年間勤務、現在は高齢者を対象とした在宅訪問診療に携わっています。
2003年に小説「廃用身」で作家デビュー、医療現場をテーマに作品を書き続けています。
小説家を目指したのは大阪府立、三国丘高校2年生の時でした。
悩んで相談をしたとき、医者になってからでも作家活動はできると励ましてくれたのが、父輝義さんでした。
父も麻酔科の勤務医でした。
30代で糖尿病を患ったものの、好物の甘いものを食べ続け、検査も受けず、ストレスをためないのが健康にいいんだと言うのが口癖でした。
晩年も医療に縛られず、自然で平穏な死を望んでいた輝義さんは、希望通り去年7月家族に看取られながら、87歳で亡くなりました。
医療現場の矛盾を題材に描いてきた久坂部さんが明るく自分の意志を貫いた父親の最後から何を学んだのか、伺いました。
父は非常に明るい死を目指して、それを見事に自宅で昨年遂げましたので、その話をさせてもらいたいと思います。
父は大正15年堺市で生まれる。 医者の家で一人っ子だった。
家の中に競争相手はいないが、従兄弟では兄弟が沢山いて、取りあいがありそれには勝てない。
父は3月31日生まれなので、学年で一番小さいので、小学校でも負けてしまって勝てない。
父は戦わずして、価値を譲る、負ける方法を考える。(先手必敗)
戦って負けるよりも悔しさが少ない。
悔しさのもとは欲望、執着があるから負けると悔しい、と気付く。
父は欲望と執着を抑えることを押さえればいいんだと、小さきころに気付く。
私は高校2年生の時に作家になりたいと父にいった。
いきなり作家では生活はできないだろうから、とりあえず医者になれと言われて医者の道に進んだ。
父は麻酔科にいたが、「今日も外科医がいらんことをして、患者を苦しめていた」と言っていたりすることを聞いたりしていた。
手術も患者を助けるんだが、必ずしもそうではないと思った。
癌を取り残すと、再発の危険性もあるし、安全に取り過ぎると命の危険もありうるという事で難しい。
父が糖尿病になる(30歳代) 父は食事療法を始める。
半年経っても血糖値が下がらない。
甘いものを食べない為我慢するとストレスのせいで下がらないのではないかと、検査をしなければ恐くはないと言って、そういう風に通す。
私が海外赴任している時に、(パプアニューギニア)父から写真が送られてきたが、痩せていた。
半年で20kg痩せる。 60kgだったので半年で1/3痩せる。
肺がんの末期だと私は判断した。(咳が出て胸が痛い)
父は検査はしなかった、患いがあるから、悪くなるのを覚悟して受け入れる。
父の言う通りにしてあげて、病院には是非行くようにとは言わなかった。
子供の価値観を親に意志付けるのは、決して親孝行とは言えないと思う。
父が倒れたとの話が母からあり、入院したらその結果、それは糖尿病だった。
血糖値が700との事で、(正常値は105~110) 150ぐらいで糖尿病の治療をしないといけない。
200ぐらいでインシュリンを注射しないといけない、300ぐらいで糖尿病性こん睡といって、からだの調子が悪くなって、こん睡状態になって命に関わるような状態になる。
700なんて見たこともない様な血糖値。
直ぐに入院して、インシュリンを注射をして、緊急入院した。
400に低下したとの事だった。(それでも凄く高い) 咳の原因は結核だった。
病院で治療をして、結核は治って、糖尿病もインシュリンで多少良くなり、家でインシュリンをするような治療をすることになる。
退院した後も甘いものには執着せずに、食べていた。(父はストレスが一番悪いと思っている)
糖尿病は末端に血液が回らない為、壊死(細胞が腐ってゆく)してゆく。
父は足が痛いというので見ると、左足の裏側が黒くなっていた。
切断しなくては行けない様な状態だったが、当人の判断でそのままにしておくことになる。
知り合いの医者は煙草は直ぐに止めるべきだと言う、ニコチンは血管を収縮する作用があるので。
インシュリンの量を当人の判断で増やしたり治療しているうちに、そのうち何にもしないのによくなってきた。
黒い皮がかさぶたのようになってそれが取れて、下から綺麗な皮が出てきた。
其時に父が言ったことは、医者と言うのは病気が悪くなった人ばっかり研究すると、自分見たいに何にもしないのに良くなった人をもっと研究した方がいいと、そうしたら人間の持っている治癒力がどうしたら破棄できるのか判るかも知れないと。 ハッとさせられた。
次に父は白内障になる。(75歳) 妻に簡単な手術だからと言われて、運命が決めることと言って、硬貨を放って、結果手術する事になる。
85歳の時に突然尿がでなくなる。
原因を調べるために、市民病院に行く。
先ずおしっこを取ってくれと言われたが、おしっこが出ないからきたと言った。
最初血液検査をして PSA前立腺がんの腫瘍マーカーがあるが、正常値が5以下であるが、父は105あった。
是は前立腺がんと言う事は明らかだといわれる。
医師から父に告げられたが、「あっ、そうですか。 しめた、これで長生きしないで済んだ。」と言ったんです。
父は早死は困るが、長生きすることにも、物凄く恐怖心を持っていた。
実際、長生きしてよかったという人はいるが、95~100歳になってよかったという人は少ない。
いろんな機能が弱ってきて楽しみも減る、耳が聞こえなくなる、眼が見えなくなる、味覚がなくなる、下の世話もしてもらうようになる、あちこち痛い、どこへも行かれなくなる。
頭だけしっかりしていてもしょうがない。
父はよくわかっているので、100歳まで生きていたらどうしようと言っていた。
「有難うございました。 85歳まで生きたから大丈夫です。」 と言う事だった。
先生が骨に転移したら痛いですよと言ったら、あなたはわたしを脅す気かといった。
先生と30分、議論を始めた。
結局治療を受けない様にした。
2カ月後に、家で尻餅をついて、圧迫骨折で、食欲が旺盛だった父は食欲を無くしてしまった。
食べなくなったので、普通は点滴などをするが、父は食欲がないという事は必要としていないという事で、家族は食べ物をあげて飲みこんだら安心するわけですが、栄養は口から入って、消化されて、吸収されて臓器に行きわたるから意味がある。
それだけの余力がないから食べたくない、飲みたくないという事になる。
水分でも出すためには心臓、腎臓が働いて出さなければならないが、その能力が無くなってきているから、飲みたくないと言っている。
無理やり補給しても臓器そのものが使うだけの余力がない時には余計負担になる。
父も私も判っているので、そのようにした。
食べなくなると急速に痩せてきて、顔には死相が現れてきた。
亡くなったら自分で死亡診断書を書こうと思っていた。
しかし、医者の友人が子が父親の診断書を書くのはまずいといわれて、急遽友人の紹介で別の医師が来てくれて、希望はあるかと聞いて、父が長生きしたくないので早く楽にしてくれと言われた。
「はい、判りました」とも言えずにその先生はこまっていました。
5月に庭に咲いているバラを見て「バラが綺麗だね」と言ったり時間が静かに流れていった。
家族全員が死を受け入れているので、あまり食べなくても、血尿が出たりしても周りは苦にならない。
流れている時間のおだやかさみたいなものは体験して本当に得難い時間と言う感じがした。
全員死を受け入れていたが、骨折していたが、よくなってきて腹が減ってきたと言いだした。
フレンチトーストをもっていったら、食パンの1/4ぐらい食べるようになって、ちょっとずつ回復してきた。
便が出てなかった。30日目に浣腸して、どんぶり一杯分ぐらい出て、粘膜がやられたので、血便がかなり出て(洗面器一杯分)、3日血便が出て、死を受け入れていたので、本人が苦しまなければそのままにしていた。
介護療養の常識を父はいくつも覆した。
食べなくなったときでも死なない時期が10日有ったが、1日の摂取カロリーは100から200、水分も500cc飲んでないが死なない。
1か月半寝っぱなしだった父が、リハビリでその日のうちに立って歩ける様になった。
床ずれも出来ていなかった。
療養していたら、認知症も出てきた。
妄想が沢山出てくる。 歴史が好きで、「井伊直弼が出てきた」、「かかれ」と言って7人の小人がやっつけるとか、TVのNHKのアナウンサーに対して小言を言ったりする。
妄想が出たりしても、「はい、はい」と言って聞いていたらいいと、いう事で、自分が受け入れられていう事を判っているので、認知症の人を責める様なことをしてはいけない。
昨年、誤飲性肺炎で高い熱が出て、明くる日の朝、苦しかったら病院に連れていくと思っていったら、こん睡状態で下あごを突き出すような呼吸をしていて、死の直前にでる兆候で、家族を呼んで、お父さんありがとう、お父さんのお陰で幸せな人生を送らしてもらえたと父に言った。
最後に「有難う、皆のおかげで」と言いたかったら、元気なうちに言ってください。
死ぬという事は苦しいが、医療でいろいろやるとさらに苦しくなる。
近代医療で救われた人はいっぱいいるが、死に対しては医療は無力です。
①執着、欲望(もっと楽になりたいとか)を言わなかった、無欲で有った事、
②苦しみはあるという事は覚悟していた。
この二つで父はおだやかな思い通りの死を遂げられたと思います。