2014年2月12日水曜日

杉田 徹(養豚業)       ・震災を体験して 私の復興(1)

杉田 徹(養豚業)     震災を体験して 私の復興(1)

ソチオリンピックの為、途中から放送がスタート。

学校に迎えに行った時は水は引いていたね。
茫然というわけでもないけど、あまり感情は湧いてこなかった。 どうしようしようも無いので。
友達は家を流されたけど、彼は淡々と写真を撮っていた。
その時思ったのは、あるか、ないか、生きているか、死んでいるか。その事実しかない。
ある命、それがいずれか命が亡くなる。 
命がある間を私はどう生きるか、それを計算する。 自分を作り上げてゆく為に私は生きている。

配合飼料は与えない。 発酵した、お金のほとんどかからない餌を与える。 
養豚はほとんどが餌代なので、そして発酵した餌だと豚も病気にならない。 外で放牧する。
その上美味しい肉になる。  自信を持って自分が付けた値段で売る。(美味しくなければだめ)
大量生産は出来ない。
便利な暮らし方とは違う。 かまどでご飯を炊くがそのほうがご飯が美味いから。
薪ストーブ 薪を取ってきたり、薪をくべたり、肉体は疲れるが、身体に良い。
苦がないと楽は無い。
薪を作ったりして、家に帰って作業着を脱いで、お茶を飲んだり、お酒を飲んだりするときの快感は何とも言えない、そういう楽がある。

この地にきて25年、それまではカメラマンをしていた。
高度成長期での報道写真を撮って雑誌に載せていたのが3,4年続く。
辟易として来て、日本を抜け出して韓国に行った。
韓国の石仏に出会って、惹かれて、石仏の写真を撮った。 
日本人が韓国には旅行にはほとんどいっていなかった。
親しくなると私の日本名は何何ですと、ぼそっという。
その人の名前までを奪うのは、これはひどいことだと思った。
日本人と言う民族を調べ始めないといけないと思った。
日本の自然風土とかかわって、暮らしてきた明治の時代に生まれた人々に会って、話を聞いて写真を撮る作業を始めた。

押し並べてどんな人でも苦労したという事だった。
かつての暮らしはしんどかった、しんどかったという。
私がそれを実際に体験してみようと思った。
あるところで1年間そういう暮らしをした。
雑草とどうやって付き合うかが、私にとって酷かったし、わたし自身が雑草を取るのが凄く嫌いだと言う事がよくわかった。
そういう理由で、こういうところに住んで、畑をやらないで、豚を選んだ大きな理由になる。
車を使うとか、冷蔵庫を使うとかは、昔の人にくらべれば楽ではあるが。
手間がかかる事はあるが、身体を使って考える大切さを知った。
秋田から宮城県の海辺の集落に移り住んだ。(住んでみたかった場所だった  3年住んだ)
又カメラを持って、日本人として理想の食が得られるここの人々に対して3年間写真に収めた。

日本人は自然の中に身を置いて、土手でお茶を飲んだりしてたたずむ光景などは、本当に伸びやかで、秋のススキがなびくなかでお茶をのむ、その人が解放されている。
日本人と自然とのかかわり合いの中で、一時が解放される事が、自然の中なんだんなあと思った。
その後スペインに行く。 2万人ぐらいの街  電気の無い村にバイクでかよって撮ったりした。
2年間住む。 乾ききった自然なのであまり自然に拘わらない。 恵みを与えてくれない風土。
自然は楽しみをあたえてくれない、自然とは関らず、人間同士で楽しもうじゃなあかと、そういう生活スタイル。
バル?に何気なしに入ったら、どやどやと5人が入ってきて、パンを広げて、ワインを一本取って麻の食事を始めた。
珍しいので写真を撮らせてくれと言って、写真を撮らせてもらったら、一緒に飲むように誘われて、友達になろうよと握手してきてくれた。
日本ではない光景であった。
飲め飲めとワインを進める。 皆が出てゆき私一人が取り残されて、どうも日本の友達とこちらの友達はちがうのかなあと思った。
そこで2年も暮らすと、彼等は自然を相手にしないで、我々人間は人間だけで楽しもうと、彼等はわたしと友だちになって楽しもうよ、と言う事が後になって判った。

日本人同士では「ありがとう」と言うが、私が「ありがとう」と言うと、我々は友達なのでそんなことをいうのは水臭いと言われてしまう。
遠慮はいらない、「ありがとう」と言うのは不自然だと言われてしまう。
日本では、友だち同士は 例えばどてに座って、自然に囲まれて、おだやかに自分が解放されているように、それを友だち同士が寄る、という。 付き合って安らぐ。
友だちの間柄で礼儀とは何かと言うと、自分を隠しては駄目だという事、いつも自分自身でいる事、これが礼儀。 彼らに教わった。

なんで都会で出来なかったか、都会では安らぐ事は出来ない。
自然の風土の中でしか魂が安らぐことはできないし、私らしく生きる事は、自然のなかだ、と言う事です。
南三陸町志津川に移って、3月11日に大震災に合い、餌の材料を取っていた冷凍食品工場が津波で流されて、餌が入ってこなくなり、豚を飼う事は止めようと思った。
止めるとどうなるか先が解らなかったが、母豚 7頭 オス豚1頭 処分する。
肉豚は残した。 えさは何とかやりくりしていた。(津波の前の日に1週間分を作ってあった)
こんなにおいしい豚肉を止めていいのか、改めて考えた。
甥に声をかけたらいいよと、言ってくれて2人で始めた。
豚は穀類が必要。  パン粉、小麦を使いたかったので、何とか見つけて繋げてきた。

以前からイタリアのフィレンツエに行きたいという想いがあり、保険を解約して一部を使って、2ヶ月間行ってきた。(豚が一番少ない時期でもあり、この時しかないと思った)
当時は家族は反対されたが、子供たちにとってもいい経験になると思い、一緒に連れていった。
魂を育てるためにお金を使う。