杉田 徹(養豚業) 震災を体験して 私の復興(1)
ソチオリンピックの為、途中から放送がスタート。
学校に迎えに行った時は水は引いていたね。
茫然というわけでもないけど、あまり感情は湧いてこなかった。 どうしようしようも無いので。
友達は家を流されたけど、彼は淡々と写真を撮っていた。
その時思ったのは、あるか、ないか、生きているか、死んでいるか。その事実しかない。
ある命、それがいずれか命が亡くなる。
命がある間を私はどう生きるか、それを計算する。 自分を作り上げてゆく為に私は生きている。
配合飼料は与えない。 発酵した、お金のほとんどかからない餌を与える。
養豚はほとんどが餌代なので、そして発酵した餌だと豚も病気にならない。 外で放牧する。
その上美味しい肉になる。 自信を持って自分が付けた値段で売る。(美味しくなければだめ)
大量生産は出来ない。
便利な暮らし方とは違う。 かまどでご飯を炊くがそのほうがご飯が美味いから。
薪ストーブ 薪を取ってきたり、薪をくべたり、肉体は疲れるが、身体に良い。
苦がないと楽は無い。
薪を作ったりして、家に帰って作業着を脱いで、お茶を飲んだり、お酒を飲んだりするときの快感は何とも言えない、そういう楽がある。
この地にきて25年、それまではカメラマンをしていた。
高度成長期での報道写真を撮って雑誌に載せていたのが3,4年続く。
辟易として来て、日本を抜け出して韓国に行った。
韓国の石仏に出会って、惹かれて、石仏の写真を撮った。
日本人が韓国には旅行にはほとんどいっていなかった。
親しくなると私の日本名は何何ですと、ぼそっという。
その人の名前までを奪うのは、これはひどいことだと思った。
日本人と言う民族を調べ始めないといけないと思った。
日本の自然風土とかかわって、暮らしてきた明治の時代に生まれた人々に会って、話を聞いて写真を撮る作業を始めた。
押し並べてどんな人でも苦労したという事だった。
かつての暮らしはしんどかった、しんどかったという。
私がそれを実際に体験してみようと思った。
あるところで1年間そういう暮らしをした。
雑草とどうやって付き合うかが、私にとって酷かったし、わたし自身が雑草を取るのが凄く嫌いだと言う事がよくわかった。
そういう理由で、こういうところに住んで、畑をやらないで、豚を選んだ大きな理由になる。
車を使うとか、冷蔵庫を使うとかは、昔の人にくらべれば楽ではあるが。
手間がかかる事はあるが、身体を使って考える大切さを知った。
秋田から宮城県の海辺の集落に移り住んだ。(住んでみたかった場所だった 3年住んだ)
又カメラを持って、日本人として理想の食が得られるここの人々に対して3年間写真に収めた。
日本人は自然の中に身を置いて、土手でお茶を飲んだりしてたたずむ光景などは、本当に伸びやかで、秋のススキがなびくなかでお茶をのむ、その人が解放されている。
日本人と自然とのかかわり合いの中で、一時が解放される事が、自然の中なんだんなあと思った。
その後スペインに行く。 2万人ぐらいの街 電気の無い村にバイクでかよって撮ったりした。
2年間住む。 乾ききった自然なのであまり自然に拘わらない。 恵みを与えてくれない風土。
自然は楽しみをあたえてくれない、自然とは関らず、人間同士で楽しもうじゃなあかと、そういう生活スタイル。
バル?に何気なしに入ったら、どやどやと5人が入ってきて、パンを広げて、ワインを一本取って麻の食事を始めた。
珍しいので写真を撮らせてくれと言って、写真を撮らせてもらったら、一緒に飲むように誘われて、友達になろうよと握手してきてくれた。
日本ではない光景であった。
飲め飲めとワインを進める。 皆が出てゆき私一人が取り残されて、どうも日本の友達とこちらの友達はちがうのかなあと思った。
そこで2年も暮らすと、彼等は自然を相手にしないで、我々人間は人間だけで楽しもうと、彼等はわたしと友だちになって楽しもうよ、と言う事が後になって判った。
日本人同士では「ありがとう」と言うが、私が「ありがとう」と言うと、我々は友達なのでそんなことをいうのは水臭いと言われてしまう。
遠慮はいらない、「ありがとう」と言うのは不自然だと言われてしまう。
日本では、友だち同士は 例えばどてに座って、自然に囲まれて、おだやかに自分が解放されているように、それを友だち同士が寄る、という。 付き合って安らぐ。
友だちの間柄で礼儀とは何かと言うと、自分を隠しては駄目だという事、いつも自分自身でいる事、これが礼儀。 彼らに教わった。
なんで都会で出来なかったか、都会では安らぐ事は出来ない。
自然の風土の中でしか魂が安らぐことはできないし、私らしく生きる事は、自然のなかだ、と言う事です。
南三陸町志津川に移って、3月11日に大震災に合い、餌の材料を取っていた冷凍食品工場が津波で流されて、餌が入ってこなくなり、豚を飼う事は止めようと思った。
止めるとどうなるか先が解らなかったが、母豚 7頭 オス豚1頭 処分する。
肉豚は残した。 えさは何とかやりくりしていた。(津波の前の日に1週間分を作ってあった)
こんなにおいしい豚肉を止めていいのか、改めて考えた。
甥に声をかけたらいいよと、言ってくれて2人で始めた。
豚は穀類が必要。 パン粉、小麦を使いたかったので、何とか見つけて繋げてきた。
以前からイタリアのフィレンツエに行きたいという想いがあり、保険を解約して一部を使って、2ヶ月間行ってきた。(豚が一番少ない時期でもあり、この時しかないと思った)
当時は家族は反対されたが、子供たちにとってもいい経験になると思い、一緒に連れていった。
魂を育てるためにお金を使う。