2014年2月21日金曜日

明珍宗理(甲冑師)        ・いまも生きる800年の鍛冶の技

明珍宗理(甲冑師)           いまも生きる800年の鍛冶の技
兵庫県姫路市  昭和17年生まれ  家業は800年以上鍛冶職人の技術を伝えてきました。
平安時代、近衛天皇から明珍という姓を賜ったといわれます。
明珍のうちたる鎧、冑は太刀で切れずとたたえられた明珍鍛冶も明治時代になると需要が無くなり大変な苦境に立たされました。
それでもその都度伝統の技術を生かし、物作りに工夫を凝らし、生き抜いてきたといわれます。
そのひとつがかつて千利休が茶室用にと注文を受けて作った火箸が思わぬところから注目されたのです。です。
火箸が触れ合い、その澄んだ音色が最先端のマイクの音質検査や音楽作品などに取り入れられました。
明珍鍛冶52代目の明珍さんに伺いました。

姫路城に近いところ。 野里門 お城の一番外側の門になる。
鍛冶街、寺街、金屋街とか職人の集団がいたところがいまでも残っている。
明珍 近衛天皇に馬具の靴、あぶみを献上したところ良い音がしたと、たぐいまれなる珍奇なりと言う事で明珍を賜ったという事なんですが。
全国各地にその名前が残っている。 明珍を名乗ると100%甲冑師です。
甲冑が不要になり今から5代前に火箸を製作した。
武家社会の崩壊、甲冑は不要になり、暖房は火鉢で、火箸は絶対必要と言う事で、5代前のひとが火箸を製作した。
非常に良い音がしたという事で、志賀直哉の暗夜行路の中にも取り上げられていただいた。
全国に広がって行った。    音で今に残っている。
火箸も段々必要に無くなってきた。

火箸の風鈴  愛好家に喜んでもらっている。
仏壇に置かれているおりん。 
どう技術を伝えるか、生活は必要なので三度の飯は必要なので、新しい物を見つけ出して行かなくてはいけないので、いろいろ模索しながらやっているが、風鈴を考え、今現在花器、食台、玉鋼の火箸、おりん等を挑戦している。
おりんの音色 響きは随分と長い 材料はチタンです。
非常にやりにくい素材で鉄の十数倍の焼いては打ち、焼いては打ちの繰り返しです。
この音に富田勲スティーヴィー・ワンダー アメリカのミュージシャンが感動した。
東洋の神秘な音だと言われた。
富田先生とは40年来の付き合い。火箸の音に魅いった。 作曲された中にも取り入れて頂いた。 
心が洗われる様な響きですね。 
司馬遼太郎の「街道を行く」のNHKの放送のなかで、テーマ曲で使われた。

第二次世界大戦では父の代では、材料から道具から全部鉄の供出されてしまい、先祖の財産を放出することになる。
私は昭和35年にこの世界に入ったが、技術を覚えたが、燃料革命で火鉢が無くなってしまって、風鈴を生みだしたが、節目節目に智慧を出してなんとか乗り越えて新しい物に挑戦してきて、技術をつないでいます。
いろんな職人の仲間がいるが残念ながら、日本の文化が無くなるのは非常に残念。
文書に書いて道具をおいて置くだけでは駄目なんです。
技術を実際に継承しない事には次の代にはつながらない。
800年、代代受け継いできた。 
せっかくここまで続いたので絶やすわけには行かないので、幸い息子が受け継ぐので息子の代までは継承できる。

狭い処に炉があって、やっとこ、の種類が100個ぐらいある。 
掴むところが全部材料、太さ、形状に依って違うのでそれによって、やっとこ、は自分で作るわけです。
灼熱の作業場で、この場所で作業する姿を見られた先生が、おいそれとは はいどうぞと言うわけにはいかない、これはわたしの宝物だとおっしゃってくれて本当に有難いことです。
18歳で父の元に入った。 家も財政的に傾いている時に入った。
お爺さんの代は職人が7,8人来て隆盛をきわめたが、父の代は不幸にも材料も道具も没収されて、父は苦労して衰退して、どうなるかわからないが何とか盛り返さないといけないと思いつつ継いできた。
自分の体験になるので365日精を出した。(正月3日 お盆以外は)
頼りのなるのは自分の腕だけですね。  手にできた、たこは職人の勲章ですね。
早く覚えたい一心だった。
朝7時までには打ち出せるようにしている。 時には3時30分には起き出す事もある。

良い物を作ろうというのは明珍家の合言葉で、「利に走るな、いいものを作る」という事をやっている。
この音には絶対的な自信はある。
甲冑、の技術を受け継いでやっているので、この音は絶対に皆さんに納得いただけるいい感じの音を届ける様にやっている。
火箸を作ることにおいても、利休さんに献上したといわれる。
姫路城の欠落した、金具やなどが多々あるという事で、文化財建築協会からの依頼で、欠落した金具を作ってほしいとの依頼があった。
図面が来る。 今まで図面を見て作ったことがないので、図面通りに作らなくては行けなくて、苦労しながら140点ほど作らせていただいた。   修復に協力できて願ってもないことだった。
金具の裏面には「平成24年明珍宗理親子これ作る」 と年号を入れさせてもらった。
次男は刀匠として良い師匠に恵まれて活躍している。  
長男、三男が私の後を継いでいる。

新しい技術 音響メーカーのマイクの試験に使われる。  
チタンの素材は錆びない、軽い、熱伝導が遅い、アレルギーを起こさない、機械加工しかできないという事で、ならおってやるということで、新日鉄が全面的に協力してくれるという事で、研磨をしてもらったりして、貰えた。
玉鋼は日立金属さん系で協力いただいた。
体力が落ちる一方なので頑張らなくてはいけないと思っているが、息子も非常に意欲を持っているので、近い将来おもしろいものがでるのではないかと思っている。
72歳なので、54年 やってきた。
ハングリーさから出たものであって、苦しい思いもしたが、あれがあったからよかったと思う。
貧乏が良かったなと振り返ってみるとそう思う。
人様に感激してもらう様なものを作りだしている満足感はある。

日本の鉄は製鉄所から鉄鉱石とコークスで還元しているが、西洋製鉄方式が入ってきて152年目になるが、それまでは砂鉄と炭で効率の悪い還元をしていた。
収集した膨大な量の金具類があり、出雲で、コレクション展を開催した。
世の中の、日本の移り変わりは物凄いスピードで変わってきている。
職人の技術は鍛錬すれば、直ぐ売れるようになるので、木綿針の細さまでできる技術を持っているので、時計会社から依頼されて明珍の音を出したいという事で、0.2mmの細い棒を作らせていただいた。
そういった先端技術にローテク技術を、命の音を欲しいという事で、引き受けて成功しました。