富沢信明(良寛研究家) 科学の目で良寛さんの謎に向き合う
新潟県生まれ 優れた宗教家、書家である良寛さんは 宝暦8年(1758年)新潟県出雲崎町で生まれた。
名主の長男だったが若くして出家し、曹洞宗の僧侶として、修行、20年ほどで宗派を離脱して、故郷にかえります。
天保2年(1831年)貞心尼、に看取られ74歳で亡くなりました。
かくれんぼをし、手まりをついて子供と遊ぶ人柄や、質素な暮らし、深い学識は人々の共感を得、多くの逸話に包まれています。
良寛さんの研究をする富沢さんは71歳、新潟大学の名誉教授で東北民芸館の館長です。
富沢さんの御専門は数学ですが、大学時代から良寛研究を始め、生涯の謎の解明に取り組んでこられました。
推測が入り乱れる良寛さんの人物像を正しいものにしたいという富沢さんにうがいました。
民芸館には1万点以上ある。(道具だけで、書は別) 未使用な道具には興味はない。
20年前から集め始める。 のめりこむ方のタイプ。
集める段階で書に出会った。 書は人物を表していると思った。人物の伝記も勉強した。
良寛の弟の山本由之に桂登紀子?と言う人がいて、その人に由之が出した手紙が10通出た。
無理して買った。 読んでみようと思った。
毎朝4時前に起きて手紙を読めるように勉強してて、少しずつ読めるようになる。
今まで判っていない事が書いてあった。
由之の亡くなる1か月前の手紙に「冬枯れの こずえに残る 一葉かな」と書いてあった。
由之の辞世の句だと思った。
良寛はもう亡くなって、自分の見たいに読んだのではないかと思って論文を書いた、それが始まりだった。
由之の事を研究すれば良寛の事が解るので、伝記はどうも想像で描かれているように思った。
正しい伝記を自分で書こうと思った。
良寛の伝記をちゃんとやろうと思って大学をやめようと思った。
新鮮なテーマなのでやる気満々だった。
次々と新しいことが見つかった。 専門は数学だったので、180度違うものだった。
証拠なしには言えないので、文献にあたって論文に書いた。
歴史、法律も科学だと思った。 証拠なしに裁判で有罪とか決められないので。
次々に新しい物が出てくるので、面白くてしょうがなかった。
良寛ほど有名偉人で居ながら、これほどわからない人はいない。
良寛は公職につかず、日記も付けて居なかったのでほとんど記録がない。
弟のゆうしは、名主で日記も付けていたので記録は残っている。
由之を物差しにして良寛を見ると良寛がいつ何をしてたかが解る。
良寛が西国からいつ越後に帰ってきたか、昔は寛政12年と言われていたが、寛政8年と言うのが今の主流だが、それより4年も早い。 論文にして発表した。
良寛の詩の内容と当時の災害で台風がいつ来たかを調べてみると、寛政3年の秋の台風に逢っている。 翌年帰ってきている。
コメ相場も上がるので、そのことが書いてあるので判る。
・・・だろう。 がそうだそうだとなって定説になる事がある。
寛政4年の帰国は決まったので、定住は早くなった。
良寛の詩で文化元年に読まれた詩だと言われていたが、良寛が寛政と文化を間違えていたといわれるが、間違えるという事はあり得ないことだと思う。
我々の方が間違えているとおもったら、「こうのね(甲子)」?ではなくて「じんのね(壬子)」?だった
「甲」と「壬」続けて書くと似ている。
誰かが読み間違えたか、書きちがえたものと思う。
*文化元年(甲子 1804年)
*寛政4年(壬子 1792年)
*一般的に 「甲子」は「きのえね」「壬子」は「みずのえね」と読まれる様であるが
良寛は出家する前に奥さんがいたことが判った。
妻帯の事を調べようとしたのが最初の仕事。
山本家の系図を見ていたら、釋尼妙歓 と書かれていた。
釋尼妙歓とはもしかしたら、良寛の奥さんではないかと思って、過去帳などを調べたらちゃんと書いてある。
山本家は真言宗で戒名が付いているが、釋尼妙歓は戒名ではなくて浄土真宗の法名なわけです,と言う事は山本家の人間ではないという事、離婚した人を良寛は記録していた。
17,8歳の頃だったと思われる。
2カ月に1回ぐらい論文を書いていて、楽しくてしょうがなかった。
検証して間違えていたら間違えていいと言えばいいのに、間違えてるとは言わないで、認めもしないのはおかしいと思う。
良寛研究のおかしいところだと思う。
数学者として良寛も研究している。 数学者として間違っていたら数学者としてはお終いになってしまうので、そういうつもりで良寛研究をしているのでちゃんと資料にもとずいて間違いの無いことしか発表していない。
五合庵に入ってからの生活は、ほとんどわかる。
山の中に一人で暮らしていた。
良寛の時代にあの様な生き方は難しかったと思う。(年金がないし)
そこで歌を勉強し、書を学んだ。
教養があったので庄屋などは良寛と付き合いたかったので、贈り物などはした。
良寛は自分が貰った手紙はほとんど捨ててしまっていたが、良寛からもらった手紙は残っている。
良寛は、名利を求めない、眼中になかった。
皆 名利を求めなければ、争いも無くなると思う。
欲が争いの元、金銭だけではなく、名誉欲が無くなれば争いは無くなる。
書を良寛は売った事は無く、好きな時に書いて気が向いたときに与えていた。
「この宮の 森のこしたに 子供らと 遊ぶ春日は 暮れずともよし」 是は好きな歌
「炊くほどは 風がもてくる 落ち葉かな」 良寛の俳句
「炊くほどは 風がくれたる 落ち葉かな」 小林一茶の句で似たのがあるが、良寛が真似をしたのではないかと、論争があったが、良寛が亡くなった翌年の天保3年に句集に良寛の作として出ている。
数学でも人文科学でも研究する手法は全く同じだと思う。 論理だけでやっている。
堀部安兵衛の研究もやっているが、これも新しい発見がいっぱい出てきている。
不思議だがこういう資料があれば解けるなと思うが、欲しいと思っているとどこともなく眼の前に表れる。
直ぐに出てくるわけではないが、あるときにポッと出てくる。
どうしてそうなるのと、疑問におもうが、思わないと通り過ぎるだけ。
何故だと思うと調べるが、何の証拠もなしに言われていることがある。
ひねくれていないと駄目。
良寛は去年,本にする。
堀部安兵衛も研究してるので論文を書こうと思っている。
堀部安兵衛の魅力 義に生きた、一度思ったことはひっくり返さない。
昔の資料を突き合わせるといろいろ判ってくる。
面白くて止めろと言われても止められない。