白駒妃登美(歴史研究家) “博多の歴女”を救った日本史
福岡県を拠点にしながら、執筆活動をしているほか、全国をへ足を運び日本の歴史や文化の素晴らしさをを伝える講演活動などを行っています。
その背景には結婚、出産、そして大病を経て命を紡ぐ大切さを実感した経験があります。
歴史上の人物の生き方を通して考える、生きるヒントを伺いました。
出身は埼玉県、航空会社の客室業務員として国際線を担当、結婚を機に退職、ビジネスマナー講師などをしてきた。
子供のころは伝記を読むのが好きだった。
興味を持つとちゃんとした伝記を母に買ってきてもらった。
歴史上の人達が友達のような感覚になってしまった。
小さい頃は日本の国民性があまり好きではなかった。
歴史に関しても、あまり興味がなく外国の生活にあこがれていた。
母が時代劇が好きでTVを一緒に見ていたが、それの影響で江戸時代があまり好きではなかったが、学生の頃の歴史の授業で、先生が江戸時代の4話をしてくれて、その中に奢侈禁止令(庶民の贅沢を禁止する令)を出している。
白米を食べるのはいけない。 でもこのお触れが何度か出ているのはおかしいよね、もし庶民が
幕府のいいなりになっていたら1回しか出て居ないよね。
以外に与えられた環境の中で生き生きと暮らしていたのかもしれないと先生に言われて、眼から鱗だった。 歴史は暗記科目と思っていたから。
史実をもとにして考える事、その時代に生きていた人からのメッセージを学ぶことだと思った。
どんな歴史上の出来事にもプラスだけ、マイナスだけという出来事は無いと思った。
両面を知る事、いろんな角度から見る事で自分の視野が広がって聞く事を実感した。
吉田松陰が好き。
生きる指針を失いかけたことがあるが、その時に私心を示してくれたのが吉田松陰の生き方だった。
20歳代で安政の大獄で亡くなるが、ペリーの船にのせて貰って、外国に行きたいと嘆願したが駄目だった。
奉行所に自首して、故郷の萩の野山獄に入れられてしまう。
最大のピンチだったが、野山獄は二度と出られない言うなところだったが、真っ先に始めたのが読書だった。
1年2カ月の間であったが、600冊読んだと記されている。
いくら勉強したって、出られないので勉強したって、無駄ではないかと周りでは思ったんだと思う。
別のところを観たいたような気がする。
牢の中で出来る最高の事をしようと、それが読書だった。
自分の与えられた環境の中で、精一杯の事をした。
松陰は囚人たちのいいところを直ぐに見つけて、字がすばらしいと言って教えてもらう、他の人も弟子入りする。
囚人がいつの間にか先生になってしまった。
松陰の人生はここから始まったのではないか。
壁は遠くから見直してみる必要があると思う。 壁は実は扉だったのかもしれない。
扉を思いっきり開けたら新たな人生がひらけるかも知れない。
思い通りいにかない時こそ、天が自分に使わしてくれた人生の扉なんではないかと、そういうきっかけを教えてくれたのが、松陰先生だった。
2008年に子宮頸癌が見つかる。
手術を受けて、全摘をして放射線治療をする。
2年後 2010年に治っていたと思っていたのが、肺に転移していた。
最初の時には取りみだしはしなかったが、転移と言われた時にはショックで、死の事が頭をよぎった。
癌に対して戦闘モードだったのが良くなかったのではないかと思った。
マザーテレサは反戦集会には参加していなくて、平和集会に参加していた。
反戦集会は戦争があることが当たり前であるような事が前提。
戦っているはずの的にも沢山のパワーを送っているのではないかと思う。
癌に打ち克とうと癌にパワーを送っていたのではないかと思った。
先生からはこういう状況で助かった人を観た事がありませんと言われてしまった。
其時に力を与えてくれたのは、親友=歴史上の人物 正岡子規と吉田松陰だった。
正岡子規は脊椎カリエルで30歳半ばで亡くなった。
武士の家庭に生まれるが、覚悟、悟りはどんな状況にあっても、平然と死ねる事じゃないかと思ったそうだ。
痛みの凄さに何度も自殺を考えたそうだが、本当の覚悟、本当の悟りは、こんなに痛くても、こんなに苦しくても今という一瞬一瞬は生かされているので、生かされている今を平然と生きる事が本来の覚悟で有り、悟りなんだと、 その覚悟を決めてから正岡子規の作風が変わる。
死の前日まで執筆活動をして亡くなっていった。
私も正岡子規のように、死を迎えるその瞬間まで生かされている、今を大事にして一瞬一瞬自分らしく生きて行きたいなあと思った。
そうしたら不思議なもので、毎晩毎晩あれだけ涙が出て夜眠れなかったのが、その日からぐっすり眠れるようになったんです。
人間の持つ悩みのほとんどは過去を後悔しているか、未来を不安に思っているかのどっちかだと思う。
今が悩みがあると言う人がいたら、時間軸がいまにあっていても、視点がここと言う一点に定まっていないのかもしれない。
もっといい環境や、もっといい御縁があるんじゃないかと周りの事を気にしたり、人と比べて劣等感を感じたり、人からどう思われていたりすると悩みは尽きないと思う。
時間軸を今自分が立っている「ここ」と言うところに合わせて、視点を一点に定めたときに、ほとんどの悩みは雪の様に無くなってしまうのではないかと思う。
生きる、死ぬではない、いつ死ぬのではない、日本人が古来からずーとしてきたように、本当に自分に与えられた環境を受け入れて感謝して、其時にできる事を精一杯しようと、毎日を丁寧に生きて、生かされている今の一瞬一瞬を本当に大切にして行こうと思った。
そうしたら本当に自分の気持ちが吃驚するほど大きく変わって、プラス思考にならなきゃという感じではなくて、長くは生きられないと思っているのにもかかわらず、ドンドン希望がわいてくる。
それから結局抗がん剤治療をするようになって、もう一回検査を受けたら、肺にいくつもあった癌細胞が消えていた。
今も生かされていて、こんな風にラジオに出させてもらっている。
若いころは自分にない物を身に付けていかなければと思って、いろんな本を読んで、いつも10年後を思い浮かんで、未来を実現するために今どうしたらいいのだろうと、いつも今を未来の為のの手段にして生きてきたが、人生って、若いころは自分に不足していることを学んで取り入れる事は必要かもしれないが、ある程度人生経験を積んだら、逆に原点に立ち返るというか、今を生きる生き方が、日本人の私たちの遺伝子に組み込まれているのではないか。
日本人は海外の技術などをドンドン取り入れてきたが、そのままで取りこんではこなかった。
日本の文化は発酵文化だと思う。
海外のものを旨く取り入れながら、消化不良を起こさない様に日本人に合う形にして取り込んでいた。
戦後は海外のものにすぐ飛びつくようになって、発酵させるという手間、暇を日本人が惜しんでしまった。
これだけ物がいっぱいあるのに、日本人が幸せを感じない原因の一つではないかと思う。
人生が右肩上がりで良くなっているときは、アメリカ型の成功が高くって素晴らしい手段になる。
病気になって、生きられないとなった時に、10年後の未来を思い描いてきたので、生き方の指針を失った。
喜びがあり、悲しみもあり 良いことがあって辛い時もある。
下り坂の時には西洋の考え方方の中に答えやヒントは無いなあと思った。
東洋の思想、日本人の生き方の中にこそ、逆境をいかに生きてゆくかの答えやヒントがあるような気がする。
一時死を覚悟したが、どうしてあの時死ななかったのだろうかと思ったが、きっと何かやることがあるから生かされてきたんだろうと思ったが、逆に私が死ぬ時どういう時なんだろうと想像するが、やる事ことがあるから生かされる訳だから、死ぬ時は天がよく頑張ったねと言ってくれている時だと、そんな気がする。
良く頑張ったねといってくれるのも悪くはないかなあと思うが、本当に死を眼の前にして、そんな気持ちでいられるかの自信は無いが。
全てを受け入れて感謝して生きていきたいと思います。