2013年9月3日火曜日

伊藤康子(女性史研究家)      ・市川房枝から学ぶもの

伊藤康子(女性史研究家)   市川房枝から学ぶもの
「平和無くして平等無く、平等無くして平和無し」
女性の参政権と理想選挙運動に生涯を捧げた市川房枝さんの言葉です
戦前は運動家として戦後は主に国会議員として長年活動を続けて来られ、1980年に87歳で生涯をとじた市川さん、今年で生誕120年になります
彼女の功績を後世に伝えようと、出版物を発行したり、展示会、講演会などの様々な活動を続けているのは、東京渋谷区代々木に在る市川房枝記念女性と政治センター、このセンターでは市川さんの志を継ぐ、女性たちが集まって8年前に、市川房枝研究会を立ち上げて、残された膨大な資料の収集と整理を手弁当で続けています
メンバーの一人、女性史研究家の伊藤康子さんに、市川さんの生涯を振り返って、彼女から何を学ぶべきか、伺いました

日本の近代は、男性天皇 男性しか天皇になれない、しかもそれが頂点になる、そういう政治体制を組んだものなので、女性は必ず下住み、我慢して愚痴をこぼすだけ、従順に耐える方が楽だし、その方が生き方として賢いという風に思って、戦う発言、行動もしなかったが、それでは駄目だと、なんとかしなければだめだと、真面目に度量した一人が市川房枝
金のかかる選挙だと、金儲けする、そのような形で汚職、わいろがはびこるので、お金のかからない理想選挙を押し出しました
私は敗戦時に6年生でした  軍国少女でしたが、戦後何を信頼して行ったらいいか分からなかったが、憲法を勉強したりして、自分自身の生き方を自分自身で貫いてきた

人間らしく生きてゆくことを求め続けてきたと思います
市川の父は母親に暴力をふるっていて、暴力を振るわれても、子供たちが可愛いから、我慢しているんだと、女に生まれたのが因果だからしょうがないと、市川房枝さんに語っていたといわれるが、市川さんは女に生れたら、何故我慢しなければいけないのか、なんで因果なのか、納得できなくて、此の母の嘆きが長い闘いの出発点になった(自伝映画の中で語っている)
妻に対しては暴君だったけれど、子供たちに対しては優しいお父さんだった(同映画)
市川は1893年に生れる 愛知県一宮市 (金さん、銀さんは其1年前に生れている)
金さん、銀さんは親、嫁ぎ先、地域の女の人を見る目に従う人生を送った
市川は、女学校に行きたいと、県立師範学校にいき、スポーツにも触れ、大正デモクラシーに触れ、キリスト教にも触れて、段々大人になりかけてゆく中で、自分らしくはどういう事かを考えてゆく

女性の先生は男性(18円)より2円安い 学校でも雑用は下女のように働かされた
東京に勉強のために向かう(25歳)
英語を教えてもらうために、兄の友達だった山田嘉吉の塾にいって、そこで平塚らいてう神近
市子などと知り合う事になる
新婦人協会を作る 2年半して治安警察法の一部を改正させる
女子、未成年者は政治的会合に参加できないし、それを主催も出来ないという法律だったが、それを取り払う事が出来た
その後アメリカに行き、国際労働局の職員になるために帰国する
婦選獲得同盟に参加して、中心的な活動を始める
男子普通選挙実現 1925年(大正14年)  議員、役人、管理職など決定権のあるところからは女子はのけものにされていた

売春禁止法を成立させようと思っても、女性議員がいないために出来なかった
女性の先生は政治に関われなかった
第一次世界大戦後は世界の先進国では、婦人参政権が実現する事は当たり前になっていた
政党、男性議員、政府などに働きかける
昭和5年、第一回全日本婦選大会を開いた(政党からも参加して祝辞を述べる)
「婦選は鍵なり」市川房枝も参加した
会員は日本全国の中で1500人程度の会員だった
毎年のように全日本婦選大会を開いた(昭和10年前には実現するのではないかと思われたが)
昭和6年、満州事変がはじまる 軍部がのしてくるので、婦人参政権は駄目になる
戦争は嫌だと、とうとうここまで来ちゃったので、いくらかでも被害を少なくすることをやるべきだと、体制を認めることはやむを得ないと腹を決めた(市川房枝)

軍部は女性参政権にもっとも反対していた 
政府は市川が持っている名前と企画力、利用したいと考えていた
国民精神総動員運動の委員にしたり、大蔵省の貯蓄奨励講師、大日本言論報告会の理事に任命した
本当は逃げたいのだけれども、女性の被害をなんとか少なくしようと考えた
情報局、新聞記者から情報を集めて、女性の生活、方針をどうしたらいいか討論を重ねた
敗戦後、即座に再開ができる基盤になった
資料を八王子の蔵に疎開させる、それが今、市川記念館女性と政治センターに展示されている
女性を半歩でも進めようとする姿勢が、戦後の婦人解放運動に結ばれてゆく

昭和20年8月25日から活動を開始する 
世界で初めて女性参政権を始めたのは、1893年 ニュージーランドが最初
アメリカは州によって違う アメリカ全体として実現したのが1920年
市川は女性の啓蒙のために全国を回る
1953年 東京地方区の参議院議員、第2位で当選する
1959年、1965年、1971年(落選) 1974年、1980年全国区から立候補 有益な活動をした
理想選挙一筋に戦う  女性地位向上、勤労者の生活安定(未亡人の生活の安定)、民主主義政治の確率、平和憲法を守る  このような公約をいつも掲げている
議員の定数是正 (市川が落選した年に、山陰で市川の何分の1で当選した人がいた)
汚職議員を落選させる運動を展開する(お命を頂戴するというような脅しがかかったりする)
社会での成果、現実にひとつずつ丁寧に追っかけたり、糾弾したり、抵抗したりして、其中で実現してゆくことを考えて、実行したんだろうと思います

私利私欲が無く主義主張が一貫している
参議院も政党化する方向に来てしまっていることが、本来の市川の考えとは違う
1946年女性参政権ができ、立候補は79人 当選39人 女性の政治力は期待されたが、評判は良くなく、情勢の政治力は成熟していなかった
次の選挙では女性議員は15人 国会議員女性比は先進国で最低
実現させるのには長い時間と活動が必要でした
内容を充実させなければ、先輩が苦労した意味が薄くなってしまいます
学校で教わっても、市川の名前は忘れらたりします
大きな市川同様には出来ないかもしれないが、小さな市川が沢山いて、ちいさな市川を支えるもう少しちいさな市川がもっと沢山いれば、市川の正義の心は生き続けると思います