国本武春(浪曲師) 甦れ、浪曲師広沢 虎造 2
国本さんは昭和35年に生まれる 両親ともに浪曲師、20歳のときに東屋幸楽に弟子入りし、若手のホープとして、期待を集めました
そして浪曲の修行に打ち込む傍ら、三味線を活かしたロックなど、洋楽の分野でも活躍してきました
2003年には文化庁による文化交流士としてアメリカ、テネシー州の大学に1年間留学し、学生のバンドに加わって全米各地で公演して三味線の魅力を伝えました
広沢虎三の凄いところ、 「一声、二節、三啖呵」 といわれるが、生の声がどこまで通せるか、声量が豊かな人でないと通らないので、声が良くないといけない
レコード、ラジオでも聞こえるようになったときに、水を得た魚のように広沢虎沢は、マイクロフォンの発達と同時に、活躍した
声量は特に大きくはなかったが、特に啖呵がうまかった、又聞けば聞くほど、節回しが良かった
父も母も浪曲師で、祖父が好きで 2代虎沢の袢纏があるので、祖父が家に呼んだりしていたようだ
虎沢はそれほど、うならず、セリフになると軽いので、入りやすかった
天中軒雲月に父は師事した 私の師匠は東屋幸楽
雲月調、雲右衛門調、東屋楽燕調は比較的入りやすいが、虎沢はやればやるほど遠くなっちゃうようで難しい、聞いていて簡単で誰にも出来そうなのに、こんなに難しい浪曲は無いと思った
節とセリフとのバランス、間あい、節の抑揚の強弱の付け方等、簡単な割に奥の深い先生です
お涙ちょうだい、のやらない様な先生なのに、お涙ちょうだいの旨い先生はいない
畳み込む様な、歯切れの良さが際立つ まねしようと思ってやるほど出来ない
父は天中軒龍月 母は国本晴美 父は40代で亡くなる 母は現役でやっている(60年以上)
20歳のときに東屋幸楽師匠にいく 師匠の奥さんが東屋美佐子で三味線の名人
高校時代に民謡ブームがあって、バンドの連中と三味線を習い始めた
卒業後東屋美佐子氏のところに通っていたが、自分でもうなりたいと言ったら、東屋幸楽師匠からこれを勉強しなさいと言われて、その後20歳で入門した(20年ぶりの新人だった)
古典浪曲は全然下火のときで、親も心配したが、やるしかないと思ってやってきた
1組3人(浪曲師、三味線、後見)でやっているが、弟子がいないので、いろんな人のカバン持ち(後見)をさしてもらったが、それが今では宝になっている
芸風、様々 朝から晩まで浪曲の世界だった
一心同体なんですね 演者と三味線が 見ていて感動的、涙が出てくる
中学ごろから、洋楽 バンドを組んでやっていたが、浪曲師になって止めようと思っていた
お客さんが60~80歳代の人たちだった
お客さんが高齢なので、この人たちがいなくなったら、どうなるんだ、誰が私の浪曲を聞くんだと
不安になって、もっと若い人が集まっているところで、浪曲の要素をもって出ていかなくてはいけないと思って、三味線を弾きながら、ロック調でライブハウスで出演するようになった
若者に結構受けた
40代になって、アメリカに1年間留学する
ミュージカルの仕事を頂いて、アメリカでやって最後は全員がスタンディングオベーションだった
舞台で何ができるか、考えているときに、三味線一丁 持って行って、アメリカの文化を吸収してこようと思った 20歳代の学生とバンドを組んで、演奏会をやったりした
拍手の切れ間を探してしゃべろうと思っていたら、しゃべり始めると、さーっと拍手が切れる
拍手はしたいが、聞くこともしたいという姿勢が凄かった
日本のお客さんももっと、自己主張してもいいのではないか
最近は浪曲も若い人の中で、見直されつつある
落語、講談、浪曲があるが 声、節は浪曲の特権 出来たときの楽しさはあると思う
浪花節は人生を感じる 思いやり、義理、人情は日本人が持ってきた美徳みたいなもの
女性が浪曲の世界にも増えてきた 7:3で女性の方が多い
歌う部分があるので女性に向いている
三味線は日本人の会話の間合い、人生のサイクルに合っているのではないかと思う
川の流れ、風、雪になったり、というような情景描写を三味線は伝えてくれる
浪曲はフリーなところがあって、日本人が生活をして生きている限り、必ずどこか、毛細血管のどっかに浪曲の血が流れていると信じているので、もう少し広いところに引っ張り出すタイミングを作りたいと思っている