金昴先(キムミョウソン 住職) お大師様に導かれ韓国伝統舞踊家から四国徳島の住職へ
大日寺の住職 四国88か所第13番札所 弘法大師が開いた寺とされ、1年を通じて巡礼のお遍路さんの姿が、絶えません。
韓国テグシー生れのキムさんはもともと韓国舞踊の名手でした。
18年前公演で、日本を訪れ、先代の住職 大栗弘栄さんと知り合って結婚、然しキムさんの人生は夫の病死で急展開します。
住職であった夫の後を継ぐことになり、四国88か所札所で初めて外国人住職の道を歩むことになりました。
舞踊家として韓国大統領賞を受賞するまで、韓国で昇りつめたキムさんは、欲は持たず、命運は
お大師様にまかせるという生き方に替ったのはなぜか、お聞きしました。
人生は不思議なものです。
明日のこともわからない、私の人生は不思議なものであると想っています。
1995年に徳島で舞踊公演があった 宿泊場所がこのお寺でした。
歓迎パーティーがあり、挨拶に行ったが、住職は怖い、暴力世界の人だと思いました。(坊主でピンクのシャツを着ていてホテルでの挨拶で)
寺に挨拶に行った時は、目が生き生きとしていて、オーラを感じた、一目で惚れてしまった。
数カ月して、結婚しませんかといわれた、圧倒されて「はい」と言ってしまった。
私を育てた師匠たちが、日本人に嫁に行くなと、反対されて、辛かった。
住職の人柄に惚れてしまった。
人生は私におまかせください、大事に大事に大切にしますと、これだけは約束しますと云ってくれて、師匠たちは納得してくれた。
母はお前が選んだことならOKといつも信じていてくれた。
父は日本生まれだったので、日本人は正直で働きもので、特に住職だから、おまえは幸せになれると云ってくれた。
高校が商業高校だった 3年生の時から、ソウルに行って勉強したいと思っていた。
芸術系の短期大学に進む。 学費は親のことが心配で、一人で解決したいと思ってアルバイトをした。
射撃を選ぶと奨学金をもらえるので、そして舞踊を勉強してレッスンを行った。
結婚して幸せでした。
日本語ができない、風習が違う、お寺のしきたりが判らないので心配したが、何もしなくていいと云われて、舞踊は毎日毎日練習して、そして公演活動を支援すると、云ってくれた。
住職は少林寺拳法を子供たちに教えていたので、そこのけいこ場を舞踊のけいこ場にしてくれた。
生徒が入ってこなければと、自分が生徒の第一号になってくれた。
全面的にバックアップしてくれた。 結婚して2年目に健康な男の子を生んだ。
私が40歳、住職が58歳のときで、子供を見るときの住職の顔は仏様でした。
高齢出産なので大変でした。 帝王切開を希望したが、自然分娩が良いと、母の気持ちを感じてほしいと、住職は云ってくれた。
自然分娩をして、母親になった喜びを感じ、涙が出てきた。
2007年4月 子供が学校から帰ってきて、宿題をしていて、いきなり住職が、こんな利口な子を産んでくれてありがとう と言って、私にそろそろ日本語を勉強して、日本の僧侶資格を取った方がいいなと言ったが、お断りした。日本語を読めない、書けない人が僧侶になれるわけがない)
2時間後、晩御飯を呼びに行ったら 脳梗塞で倒れていた。
入院して3週間後 住職に子供と一緒に声をかけた。
病院に行ったときにすでに葬式を用意を考えた方がいいと、生きたとしても植物人間になってしまうと云われた。
子供が、植物人間になってもいいから生きてほしいと、言葉が判れば手を握ってほしいと 住職は全身麻痺で意識もない状態だったが、息子が生きてほしいお願いしますと泣き声で言ったら、跡がつくほど握ってくれた。
看護師さんは是は奇跡だと云ってくれた。
息子はお父さんとの約束を守りたい 大きくなって立派な住職になりたいと、見守ってください、この言葉が判るなら、この手を持ち上げてみてと云ったら、住職は3回高く持ち上げてくれた。
住職との約束ができたので、息子が、僕が成人になるまでお母さんがこのお寺をなんとか守ってくださいと言った。
然し私は坊さんに成る気は無かった。
韓国に帰ろうと、住職が亡くなった晩から大変だったから、皆が、踊りばっかりやってきた癖に、女のくせに、外国人のくせにと 嫌になって韓国に帰るつもりだった。
長男が9歳 息子は韓国は大好きだけれども、お父さんとの約束を守りたいと云う。
一緒に仏の道に入ろうよと云ってくれて、あの時に息子のいう言葉ではないと思った。
息子を通して、住職が私に知らせる伝言だと感じた。
坊さんになろうと決意した。
最初はひらがな、カタカナ それは直ぐに覚えられた。 日本語の勉強が大変だった。
家族の愛があったから、力を出すことができた。
カセットテープがあったので、毎朝3時から起きて聞きながら勉強した。
僧侶資格取ってからも、大変だった。
普通は耳で聞き、眼で見てだが、耳で見て、目で聞きながら勉強した。
まずは身体に慣れるように。
住職になるに当たっては、いろいろ批判があった。 (女で住職かとか、外国人で住職かとか)
皆さまの尊敬しているお大師様の母も女です、 お釈迦様の母も女ですと。
私は強い母だから、頑張ってみます、どうぞ任せてくださいませんかと、一軒、一軒回った。
最初は国籍、女、踊りと、大変大変、信じてくれなかったけれども、今は、あなたは韓国舞踊第一人者なのだからこそ、お坊さんの仕事も出来るだろうと、認めてくれた。
昔、舞踊家の時は、欲が出てきて、欲張りで 38歳まで結婚も出来ないくらい、コンクールに出て大きな賞を頂きたい、人間国宝の後継者に指名されたいとか欲張りだった。
計画して、計画通りに頑張りました。
今、住職になって判りました。
人生って計画した通りに出来ない、頑張っても出来ないものがある。
全部捨てること、欲を捨てること いい欲もあるが、自分が出世するための欲は、自分が判らないうちに人を傷つけてしまう事もあるでしょう。
今は、計画をしないこと 自然に運命を任せたい、お大師様に任せたい。
私にとっての神様は お大師様とうちの住職です。
舞踊をやっていたときは、毎日毎日鏡を見ていました。 鏡は自分しか見えない自己主義でした。
今は窓を見ています。 外が見えてきます。人の心が少しわかってきます。
世界で一番立派な言葉は日本語だと思います。(世界をほとんど回っています)
「有難う」の表現はどこの国でもあるが、日本語だけが立派な、立派な、愛の表現を持っています。
日本人は感じていないかもしれませんが、過去のことをお礼をいう言葉は日本語だけです。
家族には云わないので、有難うを目を合わせて、元気よく云ってあげると、皆が幸せになります。
11年間、住職は毎日私に「有難う」と云ってくれた声がずーっと毎日聞こえてました。
「今日一日よろしく頼むなあ」とか、寝る前には、「今日一日幸せだったかい、有難う」と云ってくれた。
「結婚してくれて「有難う」」「子供を産んでくれて有難う」「ご飯作ってくれた有難う」
今 一番辛かったのは住職が亡くなって「有難う」を云ってくれる人がいないのはさびしい。
私は住職に対して申し訳ないのは、結婚して一度も「有難う」を云っていない。
反省をしています。
写真を見ながら「住職さん有難う。 今日一日よろしくお願いします」 と毎日云っています。
お遍路さんが寄ってくる、接待する精神があるところであるので、日本だけではなく、世界に向かって布教するべきだと思います。
世界皆が、四国お遍路をやってみて、皆が云うのは 「有難いことを感じました」と 接待頂いて、頂いて、涙が出ましたと、有難いことを感じたと、言ってくださいます。
仏様は我慢できるくらいの、試練と不幸をくれると、いつも家の住職は云ってくれました。
辛い時、悲しい時、寂しい時、大変といってもだれも助けてくれない。
結局人生は楽しんだもの勝ちだと思います。
人生は必ず幸せになるように、できると思います、だから楽しんだもの勝ちなので、楽しみながら、前向きで自分をあまり傷つけずに、チャレンジな精神で頑張って乗り越えて、生き生きすることだけです。
今まで頑張った通りに、前向きで楽しむことを考えながら頑張りたい。
運命を自然に任せること、これで結構楽しくなって、最近住職の写真を笑顔で見て、「住職さん 今日もよろしくお願いします」というと「大丈夫、大丈夫 なんとかなる」 笑顔で楽しもうと、てっぺんを乗り越えます。