2013年9月10日火曜日

大留隆雄(支援リーダー)      ・南相馬被災者への新たな支援

大留隆雄(支援リーダー)    南相馬被災者への新たな支援
福島県南相馬市原町地区を拠点に支援に取り組んでいる、支援隊リーダーの大留さんに伺います   
1939年、昭和14年北海道上士幌町の出身、 1975年南相馬市に移り住んで、土木会社や、そば店を経営した後、2000年からビジネスホテルを経営しています
14年前、近くで産業廃棄物の処理場の建設工事が始まった時に有志と一緒に反対運動を立ち上がりました
東日本大震災発生直後、仲間20人と六角支援という支援グル―プを立ち上げました
原発事故で半径30km圏内が自宅待機地域とされて、物流が途絶えてしまった中、避難住民へ物資の配給を始めました
その後は仮設住宅に住む被災者の生活支援に重点を移しています
去年の春からは畑を作り、自由に作物を栽培してもらっているほか、今年5月は試験的に稲を栽培する田んぼで田植えを行い、秋の稲刈りを目指しています
震災から2年半がたつ今、大留さんは被災者に対して、物の手当から精神面の支援がより重要になっていると言います  
被災者への新たな支援について伺います

私は稲を作ったことは無かったのですが、皆さんの協力のもとに本当に立派にできたなあと思います(後10日ぐらいで刈り込むことができそう)
5月5日に田植えをする 放射能の心配があったが、作ってみないことには判らないので、研究者とか、市民運動をしている方々から協力を得て、やってきましたが、大丈夫と思っています
51アールの広さ 田植えは 50名ぐらいの人でやった (東京から20名、仮設住宅、ボランティア)
震災があってから1週間 物資を集めて、供給できるように動いて、仮設住宅に持ってゆくように12月までやって、毛布、布団などが不足しているのでそれらの手配を行ってきた
正月開けてから、仮設に入っている方々が精神的なものが出てきて、睡眠薬、精神安定剤を飲まないと眠れない人が大半だったので、なんとかならないかという事で、ビニールハウスを作って、仕事をすることで多少でも精神的なものが楽になればいいかなあと思った

家族を失ったり、家を津波で流されたり苦しんでいる人が24時間考えていると落ち込んでしまうので、違う方向に頭を切り替えるためにはどうするかと考えて、ビニールハウスを考えた
楽しみを与えることによって苦しみから逃れてほしいと思った
最初は挫折した精神状態だったので、来なくて、農作業道具、肥料など揃えるので、畑に来て植えるだけでもいいからと説得して、徐々に増えていって一月すると満杯になった  
目を輝かして作業している    
ボランティア 50人ぐらい(全国から) 
最初、被災者ででき上ったような会です(家族を無くしたり、家を流されてりした人々)  
自分が被災しないと被災者の気持ちはわからないので、非常に話しやすいと言われた(特徴)

地震と津波が来て、1日、2日は仕事場にいましたが、電気が来ないので夜は真っ暗だった
原発が爆発して、みんな逃げろという事で、どこに逃げたらいいか分からなくてみんなが逃げた
逃げられない人もいたが、あの時は人の事を構ってはいられない状況だったと思う
ビジネスホテルは20km圏内のすぐ近く(数百m)  仙台の方に逃げた
桜井市長が市に泊りこんで物資を、ガソリンを回してくれと、国、県に要望して、市民のために頑張っていて、逃げている場合ではないと1週間後に家に帰ってきて、支援隊を立ち上げた
産廃での仲間に声を賭けて来てもらった 直ぐに集まる(10人位)
店が開いていないので、米、味噌、何もない状態だった
物資を分けるというと 朝の5時ごろから来る  650人ぐらい集まってきて2時間ぐらいで無くなる
良く物資が続いたなあと思う まだ日本は捨てたもんじゃない、大丈夫だと其時思った
産業廃棄物反対運動に関わって14年  民家に近い、産廃場を囲むようにため池があった
農業用水に対する考えが甘いのでは無いかと思った(私の仕事とは関係なかったが)

災害後2年目に入って、精神的なケアをするのはどうしたらいいかを念頭に考えた
物を育てることは癒しになる  
物を作る事もやっていた(折り紙、毛糸) そういった物資も調達
ラーメン店 800食 4回やっている  マッサージ、エステ、歌のおばさん、演奏、漫才を呼んだり、放射能に関する講演なども呼んでやったりした
1年目は物資、2年目は精神的なフォロー 3年目は家も作れない、家族もいない、仮設にしかいようがない人がいっぱいいるので、そういう人たちを中心にしたことをやっていこうとしている
畑作りは並行して進める 
具体的な計画は定まってはいないが、資金も必要なので
夕張市長(破産した)も私のところに来てくれた
地元の人が、できるだけ自分たちは被害者であるというだけでなく、自ら一歩を踏み出すことは大事、大変だと思うが

作家の渡辺一枝さんは今でも頻繁に来てくれて、ほかのところとの橋渡しもしてくれるし、資金面でも相当にバックアプしてもらっている
東京で「トークの会」 南相馬の報告をその都度やっているが、1回目は大留さんがゲストだった
其時はまだ、動揺しているさ中だったので、皆さんにうまく伝わらなかったのではないかと思う
まだまだ判らないことがたくさんある、それほど大きな事件だった
放射能の補償をもらっているがそれで満足している人はいない
我々田舎に住んでいる者は自分の土地、家だけでななくて、山も川も海もみんなひっくるめて田舎、故郷なんです
山菜とり、キノコ採り、魚釣り、海で泳ぐこと 一切ができなくなってしまった 故郷がなくなっちゃた、どうしたらいいだという事ですよ

去年6月 沖縄に行ったら、もう復興したんでしょと言われた 離れていると判らない
放射能の始末 除染した物の置き場が決まらないと何も手がつかないというのが現状ですから
これからどのくらいかかるんでしょうね
1~10まで自分たちの苦しみ話をすると、2時間ぐらいあっという間に過ぎる
原発事故の関連で無くなった人は南相馬市だけでも400人は関連死している
病院に入っていた人が家族に連れられて毛布一枚で学校の体育館に連れて行かれて、寒空の中で寝かされていた  病人だから死んでしまう
200人以上の病人がいたが、どこに連れて行かれたのか分からない、亡くなった話を聞いて院長がポロっと涙を流していましたよ
家があっても帰れないというのが精神的にも負担がある 80歳になっても自殺している人がいる

産廃の運動をやったり、原発のボランティアをしたり、70歳過ぎてこのようなことをやって大変なんですが、やりがいも感じている
綺麗事を言うと正義感 でやっている   
何かやらないといけない人間ですね
やれるかやれないか判らない状態で、やってきた 当たって砕けろといった感じ
でもそこには 善悪で物事を判断しなければいけないと思っている
世の中、損得で考える人が多いが、善悪で物事を考える人はどちらかというと損をする、いまの世の中は、でもやっていて楽しいです
ボランティア活動は大変だなとか、苦しいなあと思いながらは絶対やってはいけない
長い続きしない 楽しくやらなければいけないと思います
今後の取り組み  
出来るかどうか判らないが、本当に困っている人たちの足になったり、話し合い相手になったり、金銭的なものがすこしでもその人たちをカバーしてあげられれば、最高だと思っています      
そういう方向性を考えています
遠く離れると現状が見えないので、機会があったら現状を話をしてゆきたいと思っている