2013年9月18日水曜日

神直子(代表)          ・加害者の”痛み”を知ることで被害者と向き合える

神直子(NPO法人ブリッジフォーピース代表)加害者の”痛み”を知ることで被害者と向き合える
戦時中、フィリピンでは日本軍によって多くの人の命が奪われました
神さんはそのフィルピンへ元日本兵の現在の想いを、届ける活動を続けていらっしゃいます
戦争の被害者と加害者 双方と向き合う神さんに、お聞きしました

戦争体験された兵士の方がたからお話を伺って、ビデオに収録する、という活動をしています
もともとは、戦争体験者のメッセージを被害を受けたフィリピンにの方に届けるという活動から始まったのですが、映像を日本国内でもみたいと、いう方がたくさんいらっしゃいましたので、日本でも上映する、その上映とメッセージ記録の2つ、活動している団体です
大学生になった時に、ある先生が、戦争の傷跡を知るためのフィリピンへの体験学習をやっているというの聞いて、私も過去の戦争を感じてみたいというのがありまして、参加したのが2000年2月、3月のことでした  戦争被害者の方たちと出会う旅だった
過去を事前学習していたが、実際に被害者を目の前にするという事は、本当に大きな差があって、或るおばあさんから、日本人など見たくなかったのになんで来たんだと、涙ながらに訴えたのが、大きな一つのきっかけです

スパイ容疑で旦那さんが連行されて、それ以来遺骨も戻って来ていなければ、何があったのかも判らず、ずーっと苦しみを抱えていた女性だった  どうしていいかわからなかった
新潟県のおじや市の極楽寺、住職と話しをする機会があって、元日本兵だった人が中国での戦争体験への懺悔の気持ちを語っていたことを知り、フィリピンのおばあさんの顔がよみがえって、日本国内でも戦争の苦しみを心に何かを溜めたままいる元兵隊だった人が、沢山いらっしゃるのではないかと思い、そういう気持ちをフィリピンの人は全然知らないと思って、こういう兵士の方もいらっしゃるので、あのおばあさんに是非届けたいと思った(社会人成って3~4年経って)

元日本兵の話を聞こうと、2004年に、ブリッジフォーピースを一人で立ち上げる
最初は、インターネット、友達に話したりして、ぽつぽつ連絡をもらえるようになった
最初は理解してもらえず苦労したが、兎に角伝えることが念頭に在ったので、フィリピンに派兵された元兵士の方を探してまわって歩いた
今、フィリピンに伝えることがあるかどうか聞いて回った
現地の方の食べ物を取ったり、ある村へ行ったらおばあさんが残っていて、叫んだので銃剣で刺して殺したとか、この方これ以上話したくないかと思った時には、あまり突っ込まずに話を聞いていました
撮影、インタビュー、編集を全て一人で、仕事を持ちながらやってきた
直接話を聞いてしまったことが大きい 自分が一番辛かった時の話を涙ながらに、していただいたことが心に一番深く残っていて、その方たちに対して、戦後世代として出来ることがあれば、兵士のかたの想いを届けることではないかと思った、それを兎に角やるんだという気持ちだったと思います

市役所の方から協力してもらって、地域の方に集まって頂いて、見てもらったりした
あのおばあさんには、ご自宅に伺って、見てもらった(5年後)
見てる最中から涙を流す人がいたり、憲兵が出てきたときには、是が憲兵かとざわつく場面があった(全体的には温かく見守って、いただいたと思う
戦争時の顔ではなく、何十年も経っていて、おじいさんの顔なので、こんなに優しい顔なんだねと、言ったりしていた
立場が逆だったら、加害者となって、同じようなことをしていたかもと言って呉れたりした
「戦争がいけないんだよね」と話せたのが良かった
戦後世代がこのように動いていることが、評価してもらった
一度で終わりにするつもりであったが、毎年でもこういう映像だったら見たいので、持ってきてくれと言われて、逆に止められなくなって継続している

継続することに何がしかの、意味があるだろうと細々ではあるが続けた
100人以上の元日本兵の方、フィリピンで被害を受けた方、ご遺族に話を伺った
どのように連行されたり、殺されてしまったり、具体的な話を聞いている
ルソン島南部の事件 生活用水として使っていた井戸に銃剣で刺して、そのまま突き落とされて、いまだにそのままになっているとか、強姦に遭ったこともありました
フィリピンの証言を聞くのは辛いことではありますが、できる限り、伺うようにしています

何人かの方から、食糧を奪う事はいろいろ聞いたり、スパイ容疑をかけて殺してしまったという事を話てくれた人もいました
戦争さえなければ、こんな優しそうなおじいさんが、そんなことをしなくて済んだのに、と思って
戦争になったらどういう事になるのかを、皆さん具体的に話してくださったので、本当に貴重な財産を頂いたと思います
地獄で起きた事は、地獄でしかできないと言って、おれは絶対話さないからなといった人もいた
戦時中は青春時代であった、楽しいものであってほしかったが、兵士となって人をあやめてしまったという事を認めたくないとおっしゃった人もいた
自分を弁護したいような表現をされたり、命令だから仕方なかったという事を話す人が多い
しかし、自分が実行犯だったと言う人もいる
深いところにとげのように残ってしまっていて、何か事があると、出てくるし、仕方がないといいつつも、自分は実行犯だったと、気持ちの折り合いを付けるのが非常に難しいと思う

加害者、被害者と簡単に割り切れない
兵士の方が加害者であったことは間違いないんだけれども、彼らも苦労していることを、被害国の人にも知ってほしいと思う
フィリピンの方々の受けた痛みを知っているので、日本兵がどんなに大変だったかをつたえる訳にはいかないが、日本人として、どうしてそうなってしまったのかという意味では、背景的なところを含めて伝えたいと思う

根本には、戦後世代が戦争責任を考える困難さが大きいと思う、世代として違うという事からもあるが、外から見たら同じ日本人だという見方で わかれちゃうというところで、 自分たちの立ち位置すら見定められないのが現在の状況だと思う
ヒントが直接聞くという事ではないか
私は最初日本兵の気持ちは知らなかったが、日本人として、という事を深めたかった
元兵士の苦悩、痛みというのは、日本人を深めると言いう事では欠かせない作業なのか?
聞いたことによって、共感が深まった、距離が縮まった
やらなければいけないことは、過去に何があったという事を全く知らないまま、他の国と向き合ってはいけないと思う、これは大前提だと思う

情報がすくないと、お互いのことを違う目で見てしまったりするが、踏み込んで腹を割って話せば判らないことは無いというか、日本人に不信感があっても、回数を重ねることで信頼していただける事もあるし、交流してきてよかったと思います
2年前から中国、韓国とも始める
歴史的な隔たりがあれば、向き合いたいと思った
未来志向で、高校生、大学生と交流をするという事を一番の柱にして進めている
7月19日~25日韓国訪問 6名でゆく
現地で国際会議開催 20カ国集まる 「ブリッジフォーピース」も発表する
韓国人、私たち6名と1対1で話し合う時間があった
韓国での歴史授業以外に近現代史の授業がある 歴史の見方が当然違ってくるだろうと思った
日本のことをもっと伝えていかなければいけないと思った
教えられてない部分があることを、理解してもらえないことがある

人間が生み出した溝は、解決できるのは人と人の交流しかないと思っている
相手のことを知らないと偏見だったり、意地悪な目で見てしまう
相手のたちばに立って考えたり、相手の国のことを考えたり、できるだけ歩み寄れる様な関係、対話が大事だと思っています